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2020年02月01日(土) 

 

 

> 唯一絶対神もまた >>本源集団・本源共認を破壊して自我に収束した西洋人は、非現実の世界に失われた本源価値を(表層観念として)再構築するしかなく、かつそれが自我に基づくものであるが故に独善的・排他的な絶対観念(ex. 唯一絶対神)への思い込み信仰となるしかなかった。(実現論)

 

現実の内容は、頭の外にある。それは見ることができる。答えは唯一である。見ればわかる。考える必要はない。楽ちんである。

非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。これは、見ることができない。ただの話である。その内容を了解するためには、文法に従って文章内容を理解しなければならない。これは骨の折れる作業である。だから、日本人は通常理解をしない。

その代わりに忖度 (推察) を使って事を処理している。忖度と理解は似て非なるものであるがゆえに十分注意する必要がある。忖度の内容は聞き手の勝手な解釈で成り立つがゆえに、現実直視になっていない。だから、話者には何の責任もない。議論にもならない。忖度の主に彼の態度が現実直視になっていないことを指摘すると、’だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか’ と反発するので話にならない。だから、忖度の主は歌詠みのような者になる。 問答無用である。

非現実の内容を持つ者は、思慮深い者である。自己の非現実の内容を基準にして現実を批判すれば、その人は批判精神を示したことになる。人類進歩の可能性を示したことになる。

自己の非現実を持たない者は、常に現実対現実の比較をするしかない。その比較は ‘どんぐりの背比べ’ になる。ああ云えばこう云う形式の議論になることになるが多い。時間の浪費に終わることが多い比較論である。

 

> 古代から中世においては、武力・身分秩序によって自我が抑えられ、表に発現しようがなかった。>出口を失った自我は、罪の意識によって内面に抑え込まれ、非現実の唯一神に収束していった。

 

そうですね。非現実は個人の自由な世界ですね。

 

>しかし近世になって、自我の発現の可能性が開かれると、“われ思う故にわれあり”(17世紀デカルト)と都合よく思いこむことで、自我を開放し、その結果、罪の意識は失われ“神は死んだ”(19世紀ニーチェ)のだ。

 

ようやく他者の規定する罪から自己の意識を解放することができるようになったのですね。

 

>罪の意識と一神教は、感覚的に理解しがたいが、背後に自我を考えると分かりやすい。

 

そうですね。外部環境 (体外) も内部環境 (体内) も感覚器で感知できますが、非現実 (考え) の内容は、感覚では感知できませんね。それは、頭脳で理解するしかない。

自我を失えば、我々は子供に返りますね。それは無我の境地ですね。

 

>現代でもアメリカなどが、都合よく神の言葉を使い、自己正当化を計れるのも、そのような構造があるからだろう。

 

そうですね。我々日本人も何も遠慮することはない。自己の正当化を図りましょう。自己の世界観を示し合いましょう。非現実の内容は時制のある文章として示されます。しかし日本語には時制がないので非現実の内容の文章ができない。日本人に非現実の内容の作文ができるかが成功・失敗の分かれ目です。成功すれば、外国人とも議論が可能になります。’あるべき姿’ (things as they should be) に関する議論が出来ます。

我々は、日本語と英語の両言語を良く学び、時制の重要性を理解しなくてはならない。英語で考え日本語で話すと良い。英米人は日本語で話す時でも日本語特有の閉塞感には陥らない。彼らには考え方はいくらもあるからである。我々もこのやり方に従えば、西洋人と対等に話ができる。相手からも信頼され、国際的な協力のもとに未来社会の建設に参加できる。機会があれば指導者にもなれる。

 

 

 

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閲覧数345 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2020/02/01 21:16
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