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2020年06月02日(火) 

 

 

>357324 学歴の価値はどう変わる? 「偏差値の高い大学に行く」ことにしがみつく必要は、もうない   >紀伊谷高那 ( 34 会社員 )  20/06/01 PM05 

>学歴の価値はどう変わる? 「偏差値の高い大学に行く」ことにしがみつく必要は、もうない  >リンク)より転載

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>日本とまったく異なる欧米の入試システム 

 

‘東は東、西は西’ ですね。

 

>世代人口が減った現在、日本は「大学全入時代」といわれます。 >大学のレベルを問わなければ、いまの子どもたちは全員が大学に入学できるというわけです。

 

それは結構なことですね。

 

>そうはいっても、やはりレベルの高い大学への入学はいまも変わらず簡単ではありません。 >とくにそういった難関大学は、入学者数を減らして一定のレベルを保とうとしているからです。

 

それは学問の水準ではないのですね。

 

>では、その「レベル」とはなにか? >それは、いまも変わらず、基本的には「偏差値」です。

 

偏差値は学問と関係がないのではありませんか。

 

>世代人口が多い団塊ジュニア世代が受験生だった時代のような「偏差値至上主義」とまではいかなくても、日本においては偏差値が重視される傾向にあることはたしかです。

 

そうですね。偏差値は序列社会における世俗的な人間判定の基準とされていますね。

日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。ですから、’上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断を我々日本人は欠かすことができません。偏差値はその基準を求めている日本人にとってありがたい数値です。

 

> 一方、日本や韓国などで行われるような、アジア型といわれる入試とまったく異なる入試システムをとっているのが、欧米です。

 

序列順位の比較には、同次元の比較であることが必須の条件になります。人間にはそれぞれに個性がありますから、公明正大な序列判定である為には没個性の資料に基づいて比較をする必要があます。その資料となるものが偏差値です。

個性を伸ばすための大学が、選抜試験において没個性の努力を受験生に要請するところが矛盾したところです。没個性の比較は公正な序列順位の指標であり、個性教育の絶望を意味しています。

 

>欧米の入試では、日本の入試のように受験生が一斉に同じテストを受けるということはありません。 >一定の学力を測るスコアは必要ですが、その結果はあくまでも合否を判断する資料のひとつにすぎません。 >その一方で、たとえば志望理由やポートフォリオ、エッセイなどの書類をたくさん提出する必要があります。 >あるいは、何人かの推薦者がいないといけないということも。

>要は、入学を志望する人物が、いままでにどういうことをしてきて、どういう人たちとかかわってきて、入学したらなにをしたいのかといったことまで含め、トータルの人物像が欧米では問われるわけです。 

 

そうですね。個性的な個人を選ぶには、個人に関する個人的な内容が判定に必要となりますね。 

 

>日本における自分の偏差値で表せるようないわゆる学力と呼ばれるものは、あくまでひとつの指標でしかありません。

 

そうですね。数値は個性を表していませんね。日本の場合は、無個性による判定である事が選考の何よりの公明正大さを表していると考えられていますね。あくまでも私心・私意の撲滅に焦点が合わせられているのでしょうね。

 

>■大学入試改革が失敗すれば日本の未来はない!?

>ただ、日本でも大学入試改革が進行中です。

 

入試改革は、日本人にとっての解けない ‘なぞなぞ’ ですね。

 

 

.

 

 

 

 

 


閲覧数16 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2020/06/02 22:51
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