>くだらないから、やりたくない」。>なるほど、一応、理由があったわけです。
理屈は大人も子供も共通である。だから、大人と子供の対話も成立する。ところが、日本人は '理屈を言うな。理屈なら子供でも分かる' とうそぶいて理屈を言う人を相手にしない。そして、自分たちにはもっと複雑で難しく重要な事柄があると心得ているようである。心ここ在らざれば視れども見えず。だから、自分たちの屁理屈に気づくことは無い。 日本語には階称 (言葉遣い) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。 日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列なきところに礼儀なしである。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであるという価値観を共有している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。無哲学・能天気である事は、人々にとって何ら気になることはない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。
>「でも、集団のダンスなら、君一人がやらないことで調和が崩れて、台無しになってしまうし、運動だと思って割り切ってやれば」と言うと、彼は「中学生最後の思い出に、記念になるようなものを…という目的で熱心に話し合ったのに、例年通りじゃあ意味がないし、意味がないってことで、僕は筋を曲げたくない」と言い張ります。>そこまで言うなら良いでしょう。
‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官) 変わり身の早さは日本人の得意芸ですからね。目先・手先の事柄に神経を集中させていますね。現実があって非現実 (考え) の無い人間の特徴ですね。
>先生には、彼の主張は伝わっていたようなのですが、生徒たちみんな、特に他のクラスの人達には伝っていないようでした。
非現実 (考え) の内容は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。 理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。
>私が会った時には、彼ひとりだけで下校していましたし、カバンがいやに汚れていました。 >理由を聞いてみると、体育大会の練習がはじまってから、友人たちは彼を避けるようになり、教室では物が隠されたり、様々ないやがらせ、ハラスメントを受けているようなのです。 >彼は「たとえ、知らないところでカバンが蹴られて白くなっていても、それを見たところで先生たちは知らん顔さ。>僕は先生に逆らっているから。
‘寄らば大樹の陰’ ですね。
>いじめはダメの法治主義でなく、集団圧力という人治主義なのさ。 >これが日本という国なのさ」と言います。 >とても頭の良い子です。 >そして、“我一人行く” ある意味、見上げた根性です。 >このような学生はめったにいません。
そうですね。自主・独立の人ですね。わが国では潰される人ですね。わが国は、反教育的な国ですからね。
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