>2020年12月25日 >「自然」という日本語は明治時代まで無かった
自然薯 (じねんじょう) は昔もあったでしょうね。
>私たちが習ってきた教科書の中身は、西洋から輸入した概念・言葉で書かれています。
そうですね。原書は西洋にありましたね。
>例えば「自然」も江戸時代まではなかった言葉。 >日本人は全く違う自然観をもっていたのですが、それを学ぶことはなく、もっぱら西洋の自然観を学んできたのです。
西洋かぶれですね。
>では、西洋の自然とはどういったものなのでしょうか。> にほんブログ村 子育てブログへ >以下。 >(https://ajinao.com/%E3%80%8C%E8%87%AA%E7%84%B6%E3%8…3%E3%81%9F >——————————- >わたし >自然に感謝、とか >自然偉大なり、とか >自分に一番近い自然は自分の体である、とか、良く書きます。 >自然和食を名乗ってもいます。>でも、自分自身が自然なんです、ほんとは。
英国には ‘NATURE’ (自然) という有名な科学雑誌がありますね。
>「自然とは明治になって外来語を訳すためにあてられた単語である。」>なんと。 >「伝統的なヨーロッパの考え方には二つの特徴がある。 >ひとつはすべて人間を中心にして物事を考えること、第二は唯一の神が存在することである。
そうですね。考えるのは人間だけですね。 人間は理想状態も考えますね。神は全知全能で全てにおいて理想状態 (非現実) ですね。 見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は ‘嘘’ である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の非現実は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。日本語には、非現実 (考え) の内容を語る為の時制のある構文がない。 現実の内容は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。だから、考える必要はない。これは楽ちんである。正解はただ一つである。 非現実 (考え) の内容は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。
>たとえば仏教には、生き物を殺してはならないという戒律があるが、ユダヤ教やキリスト教ではそれが、人間は殺してはならないとなっている、それにこの人間のなかには他の宗教を信ずる人は入らない。 >異教徒は人間ではないのである。
残念な考え方ですね。
>東洋的な考え方ではこんなふうにはならない。 >中国から伝わった仏教説話では人間は牛や馬にも生まれ変わるし、小さな虫になってしまうこともある。
輪廻の思想ですね。
>生き物はすべて同格なのである。
毒虫も殺してはいけないのでしょうかね。
>ただ生前おこないによって生まれ方が違ってしまったことになっている。
インドにある階級制度の正当化になりますね。
>だから人間だけが特別で、残りのものを一括して自然と呼ぶ発想は生まれなかった。
言語の使用の有無を基準にして考えれば、人間と残りのものは区別できますね。
>杉、猿、虫というように個別に呼びあってきたのであり、そのひとつが人、であった。
それでは、この世にある物全てが物体のようなものですね。
>そうでなければ人の神を敬うのと同じように山の神や水の神を尊ぶ風習は生まれなかったであろう。」(自然と労働~内山節より~)
そうですね。我が国では、人の神も山の神も水の神も自己の意思を示すことはありませんね。
>つまり、自分も自然だからあえて自然と自分を区別しなかったらしい。
意思の有無を論じなければ、自然と人間は区別できませんね。恣意 (私意・我儘・身勝手) は動物にもありますからね。
>それに対して西洋では、自然と人間は別。>こちらは聖書などを読むとよくわかります。
そうですね。’最初は言葉であり、言葉は神と共にあり、言葉は神でした’。 In the beginning was the Word, and the word was with God, and the Word was God.
>鎖国が解け、明治に入り「nature」という言葉に対する日本語が無かったため「自然」という言葉ができたのだそうです。
そうでしょうね。自然は翻訳語ですね。 フランク・ギブニー氏 (Frank Gibney) は、自著 <人は城、人は石垣> (Japan The Fragile Superpower) の中で、日本語と英語の違いについて、次のように述べています。 日本語は英語のように、キチンとしたアリストテレス的文法に閉じ込められていない。言語として、日本語は「いま、ここ」に根ざしている。判断より気分に興味を持つ。意味より感受性に関心がある。英語を使うのは絶えず論理的な価値判断を行なう言語を使っていることであり、英語が価値判断を行なわせる。一方、日本語は論理的、法的ないし哲学的判断を敬遠する。たとえば、日本語には ”to be” にあたる適当な動詞がない。“being” とか “reality” のような概念は明治時代、漢字から人工的につくらねばならなかった。(引用終り)
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