>371391 「信じる」宗教と「感じる」宗教 >孫悟空 ( 不生 フリー ) 21/10/13 PM11 >今の日本人にとって宗教とは一体何だろう?と考えた時に見つけた記事を紹介します。 >この宗教観は意識して引き継いでいく必要があります。 >そこには経典も神父もいないからです。 >・・・・・以下引用(リンク) >(前略) >一般に、西欧では、「信じる」宗教。>そして日本には「感じる」宗教と言われています。 >現代の日本に暮らす多くの人にとって、宗教とはどこか遠い世界の事柄のようにとらえがちです。 >また、特定の宗教を信じない無神論者が多いことでも知られています。
そうですね。日本人は、無哲学・能天気ですからね。 体系的な考えは哲学になる。宗教に関する考えは、宗教哲学になる。
>しかし、本当にそうなのでしょうか? >最近、ネットでみつけたこんな記事を紹介させていただきます。 >(東工大教授 上田先生のインタビューより) >私も東工大で必ず年に1回、学生にいやがらせの質問をするのです。 >「この中で宗教を信じている人、手を挙げてください」と言うと、200人の教室で2、3人の手が挙がる。>クリスチャンとして洗礼を受けている子や創価学会の子は手を挙げる。 >でも、みんなにヘンなヤツだと思われるから、挙げない子もいると思うんですね。 >「じゃあ、何も信じてない人、手を挙げてください」と言うと、みんなバーッと挙げるんですよ。
そうですね。日本人が無哲学・能天気である表れですね。
>「その中で初詣に行ったことのある人」と言うと、手を挙げる。 >「その中でお守りを持っている人、持ったことのある人」と言うと、手が挙がって、カバンの中に持っている子がいるんです。 >「じゃあ、あなたたち、宗教を信じていないのなら、ここにハサミがあるから、そのお守りをズタズタに切って」と言うのです(笑)。 >「宗教なんか信じてなくて、神様も信じてないなら切れるだろう?」と言うと、「ダメです。そんなことできるわけないじゃないですか」とうろたえる。 >「何でできないんだ?」と聞くと、「バチが当たる」と。 >「誰がバチを当てるんだ?」「神様のバチが当たる」って。 >「おまえ、神様を信じてるのか?」「いや、神様なんて信じてません」と。 >「じゃあ、切れよ」って、そこで押し問答になるわけです(笑)。
やりたくないことは、やる必要がないでしょう。
>************ >お守り・・・切れない(><) あと、お守りの中も、見れない・・・ >そして、お米、粗末にできない >いずれも、多くの日本人に共通する「感じる」宗教観の象徴的な事例です。
そうですね。 なにごとの おわしますかは しらねども かたじけなさに 涙こぼるる (西行法師)
>唯一の神を信仰する「ユダヤ教」「キリスト教」「イスラム教」 >その他にも、仏教、ヒンズー教・・・っと、世界にはたくさんの民族、そしてたくさんの宗教があります。
全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。 矛盾を含んでいない文章は全て正しい考えを示している。人により考えの内容は違っている。だから、正解は一つではない。多数ある。
>しかし、日本に横たわる「感じる宗教」には、特殊な特徴があります。 >①教祖がいない >②教義もない
国民が思考を停止している国にはどのような特徴があるでしょうかね。 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン) ‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク) '日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。' (ウスビ・サコ)
>ねっ、これが宗教なの?っというぐらい象徴的でもあり、なおかつ自由すぎる印象はないでしょうか?
自由とは ‘意思の自由’ の事である。ところが日本人には意思がない。だから、自由にも意味がない。不自由を常と思えば不足なし。
>教義がないから、罰則もない。
日本の宗教には形式 (儀式) があって、教義 (教え) がない。だから、ことさら形式に拘る必要がある。
>決まりもないから、仏教もキリスト教も、自然に受け入れることができる寛容さも持ち、なおかつ、漠然とした正義感のもと、社会の秩序をなんとなく保っている!
考えには理解が対応する。考える習慣のない人たちは理解にも無縁であり、宗教は鵜呑みにするしかない。これが日本人の寛容さである。 日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。 意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく) どうやら '指示待ち人間' ができあがったようですね。 日本人には意思がない。だから意思決定はできない。意思決定が必要な時は、恣意決定に頼ることになる。つまり、事の次第・自然の成り行きで決着をはかる。このやり方は、アニマルも同じである。 恣意 (私意・我儘・身勝手) はバラバラな単語 (小言・片言・独り言) のままで存在するから文章にならない。だから、意味というものがない。行為・言動の本人にその説明責任はとれない。 日本人はなれ合っている。なれ合いとは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。日本人には、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) があって、意思疎通 (相互理解) がない。恣意 (腹) の探り合い (談合) があって、意見の交換 (議論・対話) がない。恣意決定 (盲目の判断) があって、意思決定 (理性判断) がない。だから、日本人の責任者は説明責任が取れない。未来は一寸先が闇である。危険が一杯である。だから、お変わりのないことが何よりなことである。ノー・アイディアで暮らすことになる。 自由とは、意思の自由の事である。だが、日本人には意思がない。恣意 (私意・我儘・身勝手) の自由は何処の国でも認められていない。恣意の自由は ‘自由のはき違え’ になって許されない。だから、’不自由を常と思えば不足なし’ となって、日本人の生活は以前の生活と変わることがない。 日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。 ‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り) ‘兎角、この世は無責任’ という事か。 自己の意思を表せば、その人は当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思表示の無い日本人は常に傍観者にとどまっていて、孤高の人になっている。孤立無援になりやすい。わが国は、世界の中にあって、世界に属していない蚊帳の外。 日本人には罪がない。意思の無い人には罪がない。意思の無い人は能動がなくて、受動だけの生活をする。被害者意識はあっても、加害者意識がない。だから日本人は加害者意識が高じて体験する罪悪感に苛まれることがない。これはアニマルも同じです。だから、日本人には罪がない。罪の意識におびえる人たちが日本人に謝罪を勧めたらどうなるか。それは自虐行為の勧めと受け取られて恨みを買う事必定である。 日本人は罪を語らない宗教である神道・仏教の周辺に集まっている。とにかく、罪の匂いのするものは日本人の体質に合わない。それは陰気のもとになる。だから日本人は罪の話は嫌いです。罪の意識のない人には、病める魂もなく、その救済も必要としない。だから、贖罪の為の宗教 (キリスト教) も、わが国では力を持つに至らなかった。 戦後の占領軍のWGIP ( War Guilt Information Program: 戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画) という奇特な計画も見事に失敗しました。これは、アフガンに民主主義を植え付けようとするアメリカ人のようなものか。日本人に対する罪悪感の宣伝は ‘カエルの面に小便’ の状態になったのです。 各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy. 欧米人は哲学と意思により人間の行動を説明する。日本人には、哲学と意思がないので、人の行為を ‘建前と本音’ を使って説明する。建前は ‘口実・言い訳・言い逃れ’ である。本音は、’私意・我儘・身勝手 である。だから、現実の中に行為がうずもれてしまい低俗な感じは避けられない。意思は未来時制の文章内容になるので意味があるが、恣意はバラバラの単語のままで存在するので意味がない。
>(後略) >・・・・・・引用終わり・・・・・・ >感じることが出来る、それが素晴らしい。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。 「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
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