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2021年12月04日(土) 

 

>単刀直言 伊吹文明元衆院議長 政治家は信念に基づく発言を > 2021/12/03 16:29

 (略)

>38年間の議員生活を終え、日々の緊張感が少しなくなった、そんな感じですかね。>国民の主権を預かって東京へ出てきているので、投票してくれた方々に恥をかかせちゃいけないと常に行動してきましたから。 

 

政治家は支持者の信頼を裏切ることはできませんね。    

 

>振り返れば、政治で一番おもしろいのはやはり政策を実現していく政略ですね。  

 

そうでしようね。それは無から有を生じさせる努力ですね。張り合いがありますね。        

 

>新聞記者の中にも政治記者という政局記者がいるように、政局はある意味で非常におもしろい。 >失敗もあれば、うまくいったこともいろいろありました。 >関係者の多くはお元気だからまだ語れないけどもね。 

 

それは太平洋戦争の責任問題のようなものですね。まだ語れない。    

 

>岸田文雄政権を評価するのはまだ早いでしょう。 >先の衆院選は、事前の予想と比べてよかったというだけで、勝ったという雰囲気ではない。 

 

そうですね。   

 

>立憲民主党は共産党の固い票があったから、結果的に選挙区で若干議席を増やしたが、比例議席はがた減りですね。 >来年夏の参院選は1人区が多いから、共産党との関係をどうするのかな。 

 

御都合主義に狂奔する政党には未来がないですね。政治には何よりも信頼が大切ですね。       

 

>立民の新執行部の方針にもよるが、日本維新の会の出方も含め、自民党は注意して臨まないといけない。 >岸田政権が安定政権になるかは、一つは支持率が落ちてきたときでもバックアップしてくれる基盤を作ること、もう一つは政策で国民の支持を得ること。 >岸田さんには、目先の人気取りよりも、国民になるほどと思わせるような政策を期待しています。  

 

そうですね。彼は無哲学・能天気ではいられませんね。     

 

>例えば、岸田さんが掲げる「デジタル田園都市国家構想」とは具体的にどんなものなのか。  

 

岸田さんはその内容を熱を持って国民に語り掛けると良いですね。お題目だけでは空念仏ですね。      

 

>宏池会(岸田派)の大先輩の大平正芳元首相の「田園都市構想」は教育や文化を包含した豊かな住環境を地方につくることだった。>これができれば、海外に出てしまった日本企業の工場を呼び戻すことも可能になる。 

 

一極集中は昔からあるわが国の習慣でしたからね。もちろん日本だけにある習慣でもありませんがね。     

 

>「アベノミクス」で成長と分配の好循環が生まれなかったのは、金融緩和で良い条件をつくっても、国内で設備投資を起こさせる環境が整わず、海外に投資が逃げたから乗数効果が内需として生じなかった。 

 

残念なことですね。   

 

>今の70代は元気だ。>若い人も働く場所さえあれば祖先の土地にとどまって暮らしたいと思う人も多い。>こうしたことが実現できれば、工場も戻り、サプライチェーン(供給網)も安定し宏池会の先輩の志も生きてくるでしょう。  

 

そうですね。田舎には人間の生活に適した広い土地がある。      

 

>憲法は時代に合わせて変えるべきです。  

 

そうですね。日本人はルールを変えるに躊躇しますね。無哲学・能天気であるから政治哲学も無い。この状態は政治家による変革には馴染みがないですね。   

わが国の文化は儀式 (作法) があって、教義 (教え) が無いのが特徴である。考え (非現実) が疎かであっては作法 (現実) を変えることは難しい。         

 

>維新と国民民主党が改憲議論を進めようとしていることに期待感を持っています。  

 

そうですね。既成の枠内にとどまることのない態度が我々には必要ですね。    

 

>現状の改憲勢力と協力し、どのように各党に働きかけていくのか。  

 

日本人には世界観がないですね。だから熱い心の内を打ち明けて語る習慣がない。      

 

>これは内閣ではなく自民党の責任です。

 

総国民の責任ですね。    

 

>私が以前「新型コロナウイルスは憲法改正の実験台と考えた方がいい」と発言したら、「コロナに便乗するな」とずいぶん批判されました。>共産を除く政党は何らかの改正が必要だと考えている。

 

この際自分の求めるものが何であるかをはっきりさせる必要がありますね。   

 

>コロナ禍の状況を考えれば、緊急事態条項創設なら意見が一致する可能性はある。  

 

そうですね。日本人には意思がない。だから、思い切ったスタートが切れない。

フランク・ギブニー (Frank Gibney)  氏の著書 <人は城、人は石垣> には、日本人の意思決定に関して次のようなことが書かれています。

 ペリー提督は、日本人はアメリカ人のように敏速に行動しないと注意された。それは、このように説明された。数人の日本人が黒船を訪れたいと思って集まったとする。一人が「いい日だな」という。これに二人目が「なんという気持ちのいい日だ」と調子を合わせる。三人目が「波も見えないぞ」という。最後に四人目が「船に行ってみようじゃないか」と提案する。  ニューヨーク・デイリー・ニューズ (1854年6月13日) (引用終り)

 

>憲法改正の発議権は、憲法により内閣でなく国会にある。>国民投票が否決された場合、だれの責任かも議論しておく必要がある。

 

日本人には意思がない。意思の無い人間には責任も無い。だから、日本人は責任の所在を言い当てるのに昔から苦労している。   

肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。

徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)    

 

>政治的には最大与党の党首の責任でしょうが、形式的、法的には発議した衆参両院議長の責任でもある。 

 

そうですね。衆参両院議長の個人責任ですね。意見は人によりまちまちです。一億総懺悔にはならない。    

 

>そうしたことも踏まえ、両院の憲法審査会で積極的に議論してほしい。>憲法改正については国会の責任は重いですね。

 

そうですね。日本人は特に議論下手ですからね。    

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。   

 

>私が引退したことで、財政規律を考える人が減ってしまうことが心配です。 >お金をもらえば、だれもがうれしいが、18歳以下への10万円相当の給付はどれだけの国民が望んでいたのだろうか。 >その経済効果はどうなのか。 

 

その場しのぎの方策でしようね。   

 

>財源は国債で、国債は将来世代にその納税で利払いや償還の義務を課します。 >保守の支柱エドマンド・バークは「国家とは受け継ぎ、護(まも)り、次世代に引き渡す共同体」と言っています。 >保守を自認する政治家には大切にしてもらいたい言葉です。 

 

そうですね。政治家が宵越しの銭は持たぬ気風では困りますね。

フランク・ギブニー氏の著書 <人は城、人は石垣> には、以下のような指摘があります。

日本語は英語のように、キチンとしたアリストテレス的文法に閉じこめられていない。言語として、日本語は「いま、ここ」に根ざしている。判断より気分に興味をもつ。意味より感受性に関心がある。英語を使うのは絶えず理論的な価値判断を行なう言語を使っていることであり、英語が価値判断を行わせる。一方、日本語は論理的、法的ないし哲学的判断を敬遠する。たとえば、日本語には “to be” に当る適当な動詞がない。”being” とか “reality” のような概念は明治時代、漢字から人工的につくらねばならなかった。「概念」 (concept) でさえ人工的につくらねばならなかった。 (引用終り)    

 

>これからの政治家は、目先の票や時の流れにおもねるのではなく、信念に基づく発言をしてほしい。 >同時に、政策を実現するには与党内はもちろん、野党との信頼関係や人脈を作ることですね。 

 

そうですね。その場限りの口実では困りますね。信頼関係の構築には政治家個人の政治哲学が必要ですね。    

 

>数学の世界と違い、人間のやることには絶対正しい答えはないわけで、異なる意見にも寛容、妥協を図ることも大事、しかし筋は通す。 

 

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは考えではない。矛盾を含んでない文章は、全て正しい考えを表している。矛盾を含んでいる考えも、その矛盾を取り除けば正しい考えになる。矛盾を発見し取り除くためには議論・対話が有効である。議論・対話を普及させよう。考えの内容は、人によりまちまちである。だから、正解は一つではない。幾らでもあるから、人間は個性的になる。考えのない人達は没個性的である。だから、自己実現が難しい。   

 

>多数決万能でなく、与党の政治家は特に考えてほしいですね。  

 

そうですね。数合わせに専念しないことですね。衆愚政治をさけるために必要なことですね。   

 

>福田赳夫先生の評伝を読むと、「国会議員を引退しても、政治からは引退しない」とおっしゃっている。 >私はそこまでの迫力はないけど、一人の有権者として、日本の政治や社会のあり方について必要なことは発言していこうと思っています。

 

それは大切ですね。無哲学能天気ではいられませんね。

我が国は、頭脳流入の国にならなければならないですね。それにはわが国の研究環境を良くすることが必要ですね。

生活環境が劣悪であると難民流出の国となる。生活環境が良好であると難民流入の国となる。

研究環境が劣悪であると頭脳流出の国となる。研究環境が良好であると頭脳流入の国となる。 

現実 (事実) は見ればわかる。現実の正解は一つしかない。非現実 (考え) の内容はみることができない。だが文章になる。文章にならないものは考えではない。

矛盾を含まない文章は、全て正しい考えを表している。考えは、一人一人違っている。だから、正解は無数にある。体系的な考えは哲学になる。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy.  そうでなければ我々は、つかみどころのない人間になる。   

大学などの高等教育機関で自己の哲学の政策に励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。

私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから大学在学中の4年間を退屈男・退屈女になって遊んで暮らさなければならなかった。       

政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)。(引用終り)

我が国には人手不足の話はあるが、頭脳不足の話はない。わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。日本人の歌は文章になっていないから意味がない。    

 

>(広池慶一)   

 

 

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閲覧数338 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2021/12/04 10:28
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