吉村洋文氏 |
>毎日新聞 >維新・吉村代表、靖国参拝は「国会議員として当然」記念会見で言及 >毎日新聞によるストーリー・ >1時間 > 日本維新の会の吉村洋文代表(大阪府知事)は22日の記者会見で、靖国神社への参拝について「国や家族を守るために命をささげた英霊に尊崇の誠をささげるのは、国会議員として当然だ」と述べた。
政治家が戦死者の追悼を宗教家に丸投げをしている現実は良くないですね。 政治家は自己の責任において戦死者の追悼を行うべきですね。戦死者の責任は政治家にあることをはっきりと国民に示すべきですね。
> 高市早苗首相が自民党総裁になる前は、靖国神社への参拝を続けてきたことを前提とした発言。
以前の政治家は供養の一環として戦死者の慰霊を行ってきた。供養は意思のないものも対象になりうる。鰻供養、針供養などもある。
> 吉村氏は「やり方は議員判断だ。
そうですね。わが国の議員は宗教家を頼りにする戦死者の追悼形式を改めるべきですね。
>高市総理の判断を尊重する。
そうですね。高市総理の判断が我が国の外交関係を決しますね。 日本人には意思がない。意思のない人間には責任がない。責任のない人には信頼がない。信無くば立たず。 我が国の戦死者に対する追悼は高市総理が全責任を負うべきですね。祖国を守るために命を懸けた将兵の崇高な勇気 (強い意思) を讃えるために自衛隊員と共に盛大な式典を行うと良い。 戦死者の国立墓地で自衛隊の隊員が衛兵交代式をすれば外国人観光客にも人気が出るでしょう。
>他国に対してどうこう言われるのは違うと思う」と語った。
そんなことはない。国際関係も大切です。 日本人の礼儀作法は個人的な序列作法であるので「小さな礼儀は知っているが大義はない」ということになる。日本人の礼儀は小人の作法であるということである。「自己の序列の利益を優先し、普遍的な正義や道徳に欠ける」のは、われわれの無哲学・能天気の為でしょうね。日本人は「形式主義的で功利的な国民性」であるということを外国人に見透かされていますね。 中国人は日本と同じ第2次世界大戦敗戦国であるドイツの姿勢を日本と対比する形で称賛し、1970年のブラント首相の「ワルシャワでの跪き」やホロコースト否定を犯罪とする法律、国民教育などを例に挙げ「日本の姑息な振る舞いを際立たせている」と論じた。ナウな感じにする日本人は ‘後は野となれ山となれ’ ですからこれはもっともな指摘ですね。事後処理の優劣により昔の同志が称賛と軽蔑に別れたのも皮肉な現実ですね。日本人はこの ‘貧乏くじ’ の運命から逃れられることができるのか。 西洋人は意思があるので加害者意識もある。罪の意識もある。だから皆が罪びとになっている。謝罪は相手の為の満足というよりも、自己が罪の苦しみから逃れる手段として必要である。だから謝罪を励行する。日本人はこれを自虐と見る。
>【宮本翔平】
日本人は思考を停止しているから、自分自身の意見を明らかにできない。わが国のマスコミの編集長でも例外ではない。だからいくら外部の情報を流しても、それが社会の木鐸の役割を果すことはない。「それでどうした、それがどうした」の問いに答えが出せないのである。我々日本人は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だから個人の価値が低い。[木鐸=ぼくたく:世人を教え導く人] 英米流の高等教育機関において自己の個人的な見解を論文にて明らかにすれば学位 (博士号など) が得られる。ぜひやるべき勉強です。 イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。 何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
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