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2025年03月30日(日) 

 

>現代ビジネス   >アメリカの幹部は「修士号」「博士号」が当たり前…「低学歴化する日本」が直面する「ヤバすぎる事態」   >小熊英二 (社会学者) の意見・   >18時間・   

>なぜ日本は停滞からなかなか抜け出せないのか? 

>その背景には、日本社会を支配する「暗黙のルール」があったーー。   

>社会学者・小熊英二さんが、硬直化した日本社会の原因を鋭く分析します。   

>※本記事は小熊英二『日本社会のしくみ』(講談社現代新書、2019年)から抜粋・編集したものです。   

>幹部は修士号・博士号が必須   

>こうした雇用慣行の違いは、教育のあり方にも反映する。   

>すでに述べたように、欧米(だけでなく日本以外の多くの国)では、欠員募集が基本で、新卒一括採用という習慣はない。   

>そして一定の職務経験か、専門能力を証明する学位が求められることが多い。   

>そうなれば、教育もそれに対応したものとなる。   

 

そうですね。   

 

>学位の専門化は、職務の専門化と呼応して進んだ。   

>一例としてアメリカの大学職員を例にとろう。   

>アメリカの大学職員は1970年代以降に専門職化が進み、学務登録(Registrar)や学生支援(Student Affairs)、上級管理職(Administrators)などの専門課程が、教育大学院などに設けられた。   

>日本のような人事異動がないので、同じ大学でさまざまな職種に就くのではなく、同じ職種でさまざまな大学を移りながらキャリアアップする。   

>専門職学位としてM.Ed.(Master of Education:教育修士)やD.Ed.ないしEd.D.(Doctor of Education:教育博士)をとっている人も多い。   

>こうした学位は、上級の職務ほど、応募段階から要求が高くなる。   

>東京大学職員の小野里拓が2017年10月にアメリカの求人情報サイトを調査したところ、4年制大学のDirector(日本の課長級)では、修士号取得を応募の最低要件としていた求人が12件中5件。   

>Executive(日本の部長級)だと、博士号取得を最低要件もしくは望ましいとするものが28件中6件、修士号取得を最低要件もしくは望ましいとするものが16件だった。   

>これは応募の最低要件にすぎない。   

>小野里が2015年にモンタナ州立大学のある国際教育担当課長にインタビューしたところ、「課長職の公募であれば修士レベルの学位を持っていることはほぼ前提で、さらに上位の職を目指すのであれば博士号も必要」とのことだった。   

>この課長は、すでに複数の大学で20年近い国際教育の実務経験があったが、教育大学院で学びなおすことを決意していたという。   

>アメリカの若者はどう生き残るか  

>アメリカの大学では、基本的に職員を専門職と業務補助職に分類しており、補助職ならばここまでは要求されない。   

>しかし専門職では、学位だけでなく実務経験をも要求する場合が多い。   

>こういうことは、職務ごとに労働市場があって、職務ごとに募集している社会ならではといえる。   

>専門能力はあがっていくし、キャリアアップの展望も描きやすい。   

>もっとも、これはこれで問題もある。   

>競争が激しいし、ストレスも多い。   

>私がアメリカの大学を訪ねたときには、管理職の上級大学職員の給与が高騰しすぎて、その大学の教育予算を圧迫しているという話も聞いた。   

>一部の上級大学職員の高給が、高い学費になって学生の負担になれば、それも大きな問題だろう。   

>またこうなると、学位も実務経験もない若者は職を得るのがむずかしい。   

>そのため、若年失業率が高くなる。   

>そこで若者は、まず大学や大学院、職業訓練学校などで資格や学位をとり、実務経験の不足をカバーする。   

>アメリカの大学などでは、修士号や博士号をとるといかに年収があがるかをアピールして、学生を集めている。   

>卒業後はインターンや見習いとして働き、実務経験を積んでから、より高い職務をめざすことになる。   

>上記のモンタナ州立大学の課長の場合も、学生時代に大学の国際プログラムオフィスに学生助手Student Assistantとして関わった経験からキャリアを始めたという。   

>アメリカの高等教育では、カリキュラムの一環として、インターンシップを必修もしくは強く推奨している場合も多い。   

 

子供には現実 (事実) ばかりがあって非現実(哲学・考え) がない。

英米流の高等教育は子供に哲学を獲得させるための教育である。

英米流の高等教育は子供を大人にする為の教育である。

子供が思春期になって、言語能力が飛躍的に増大するのを待って高等教育が行われる。

 

英語の文法には時制 (tense) というものがあって独立した非現実の三世界を表現することができる。

未来時制の構文を使えば自己の意思を表すこともできるようになる。    

自己の意思を表すと加害者意識も経験することになる。

それが高じて罪の意識も理解できるようになる。罪の告白も可能になり入信する人もいる。   

深い反省にも陥ることもあるので原因の究明が行われる。     

事故の原因究明がうやむやにはできない様な心構えになる。

 

魂の救済を必要とする人も出て来る。   

贖罪のための宗教 (キリスト教) も重要になる。   

こうした過程を経て浅薄な人間が思慮深い人間に変身する。   

だからどこの国でも高等教育に力を入れることになる。   

 

哲学は非現実 (考え) の内容であるから、思考を停止している日本人には縁がない。

日本語は現実の内容だけを話す言語である。写生画の言語であるとも言われている。   

日本式の判断だと見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。   

だから現実の言葉 (日本語) を話す人が非現実を語る学習をすると常に失敗する。   

嘘ばかりついていては学習に力が入らない。だからわが国は英米流の高等教育の導入に失敗した。何処の国も日本に我が子の高等教育の成果を期待する親はいない。  

 

今の地球はアングロ・サクソンの支配体制にある。哲学が相手を引き付けて人々の尊敬を得る。アフリカ系米国人はアメリカの大統領になった。インド系英国人は英国の首相になっていた。これらは高等教育の賜物である。インド人は印欧語族であるからアングロ・サクソンと相性が良い。   

 

当の日本人の若者はいまなお序列競争にうつつを抜かしていて、教育内容の吟味などする余地はない。   

難関出身者が序列社会で優位に立つことばかりを気にしている大型の子供たちである。

世界に対する注意力不足で井の中の蛙になっていて、国際取引で印欧語族を取引相手にして苦戦を強いられることになる。     

 

「中国は悪だが、日本はもっと邪悪だ、中国にダンピングや過剰生産の方法を教えたのは日本だ」「日本は1945年から何も学んでない。米国がいかに優れていて、寛大なのか、分かっていない」 (クリフス社のゴンカルベスCEO)   

日本人には現実があって非現実がない。日本人の教育は戦前戦後を通じて実学 (技術) があって、虚学?(哲学)がない。だから‘あるべき姿’を追求する学問がないので高尚な議論が出来ない。欲得ずくのかけひきしか考えていない。それで日本人は相手からの信用が得られない。  

日本人には意思がない。だから加害者意識も無く、罪の意識もない。在るのは被害者意識だけである。天真爛漫としていて、自分自身が邪悪などとても信じられない。だから子供じみている。  

 

ヒットラーは勝算を見込んで (理性判断) 戦争に突入した。

日本人は勝算を見込むことなく (盲目の判断) 戦争に突入した。

マッカーサ元帥は1951年5月5日の上院合同委員会で日本人を以下のように評していました。  

‘もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。 

指導を受ける時期というのはどこでもそうですが、日本人は新しい模範とか新しい考え方を受け入れやすかった。あそこでは、基本になる考えを植え付けることができます。日本人は、まだ生まれたばかりの、柔軟で、新しい考え方を受け入れることができる状態に近かったのです。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下)  

マ元帥の発言はどの駐日大使のものよりも率直でしたね。外交辞令がない。彼は知日派の人であった。だが、日本人は彼が考えるような知恵遅れの民族ではない。日本語文法には時制 (tense) というものが無いのである。待てど暮らせど非現実 (考え・哲学) を搭載する構文は日本人の口からは出て来ない。つまり自己の考えの内容が出て来ない。これが英米人の子供と違う所である。    

 

 ‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)     

なるほどこれでは日本の大人が子供じみて見えてもしかたがないですね。わが国の学歴社会は序列社会の言い換えにすぎない。   

「うん、頭はいい。しかし本当に信頼できるかね」 (フランク・ギブニー) 

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)   

日本人の無哲学・能天気はついに国際的にも知られるようになったようですね。   

 

日本人の記事は実況放送・現状報告の内容ばかりで、読者のためになる所が少ない。‘それでどうした、それがどうした’の問いに答えを出せる人が必要である。我々は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。自己の見解を示せば学位 (博士号など) が得られる。自己の見解を含まない発言には価値が少ない。我が国には社会の木鐸 (ぼくたく:  世の人を教え導く人) が必要である。そうでなければわが国は迷走し続けて、いつまでたっても何処にも到達しない。だから、若者にも夢と希望が無い。

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


閲覧数50 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2025/03/30 02:16
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