>現代ビジネス >「真珠湾攻撃」に参加した若き士官が、終戦時に感じた「国への不信」 >神立尚紀 (カメラマン・ノンフィクション作家) によるストーリー・ >11時間・ >今年は戦後80年。 >昭和20(1945)年8月15日正午、天皇自らが全国民に語りかける「玉音放送」で、戦争終結が伝えられた。 >日本政府はこの日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と定め、東京の日本武道館で毎年、全国戦没者追悼式が挙行されるのをはじめ、全国各地で戦没者、戦争犠牲者の追悼行事が行われている。
そうですね。追悼はあるが反省はない。
>ここでは、私がこれまで30年にわたってインタビューしてきた、最前線で戦っていた海軍軍人だった人たちそれぞれの「8月15日」を振り返り、シリーズで紹介しようと思う。 >なお、証言者の多くは、残念ながら鬼籍に入っている。
>終戦時に感じた国に対する不信 >「終戦は横須賀海軍航空隊で、日本初のジェット機橘花(きっか)のテスト飛行の準備中に迎えました。 >戦争が終わったときは、それまで、あんまりこちらの戦いぶりのお粗末なところを見てきたから、敗けた悔しさよりも、なんでこんな戦争を始めたんだと、そういう気持ちの方が強かったですね。 >子供だって、喧嘩するときは止めどきを考えるでしょう。 >どうやって終束させるか、それが全くなかったわけですから。 >私はもともと『忠君愛国』のほうではなかったですが、無為無策な戦いで多くの人を死なせた、国に対する不信は大きかったですね」と、私に語ったのは本島自柳(もとじま・じりゅう)さん(1917-2005)である。 >本島さんは旧姓名大淵珪三。 >群馬県太田市出身、昭和13(1938)年、海軍兵学校を六十六期生として卒業後、飛行学生を経て九九式艦上爆撃機(2人乗りの急降下爆撃機)の偵察員(後席で航法、偵察、電信、射撃などを担当する)となった。 >空母赤城に乗り組み、昭和16(1941)年12月8日のハワイ・真珠湾攻撃に、いちばん若い士官として参加したのが初陣だった。 >本島さんは、「私はね、真珠湾攻撃の前の晩寝るまで、『引返セ』の命令があると思っていました」と私に語っている。 >「日米交渉がうまくいったら引き返すこともあり得ると聞かされていたし、こんな簡単に大いくさを始めていいんだろうか、そういう感じは持っていましたからね。 >真珠湾攻撃の話を聞かされたときは、私なんか作戦の中枢にいるわけではないですし、ああ、いよいよやるのか、ずいぶん訓練をやったからな、とそれだけでした。 >搭乗員にとって、戦争は毎日の訓練の延長でしかなく、特別なことをするわけではありませんから」 >12月8日、赤城艦爆隊は、第二次発進部隊に編入されていた。 >本島さんたちの発艦は、第一次発進部隊より1時間ほど後になる。 >「発艦して2時間ほど飛んだところで、オアフ島の海岸線が見えてきました。 >島の緑は冴え、海岸線に打ち寄せる白い波頭も美しく、こんなにきれいなところを攻撃していいのかと、ふと思ったほどです。 >双眼鏡で攻撃進入方向を偵察すると、敵地上空になにか白いものがおびただしく、ポカポカ浮かんでいるのが見えたので、操縦員の田中義春一飛曹に『おい田中、あれは防塞気球かな』と声をかけたら、『分隊士は呑気だな。 >あれは敵の対空砲火の弾幕ですよ』と言われた。 >そこではじめて、ああ、ここは戦場なんだな、と」 >高度3500メートル。 >そこから隊形を開いておのおのの目標に向かって急降下爆撃をする。 >九九艦爆に搭載する250キロ爆弾は、残念ながら戦艦に対しての効果は小さいので、本島さんは港内の油槽船を爆撃目標に選んだ。 >「私は初陣で、敵の弾丸の下をくぐるのはもちろん初めてでしたが、怖いとは思わなかった。 >機体に5発被弾していましたが、全く気がついていませんでした。 >しかし、よく昔の豪傑を形容するのに『千軍万馬のつわもの』なんて言うけど、戦争は回数を重ねれば重ねるほど怖くなる。 >人間というのはね、そういう弱いものじゃないかと私は思いますよ」 >思い出深い艦を攻撃目標に >本島さんはその後、赤城の転戦とともに、昭和17(1942)1月より、南太平洋のラバウル攻略、オーストラリア本土のダーウィン空襲に参加。 >セレベス島ケンダリー基地での猛訓練を経て、インド洋作戦に出撃し、4月5日、イギリス海軍の重巡洋艦コンウォール、ドーセットシャー、9日には空母ハーミスを撃沈した戦闘にも参加している。 >ドーセットシャーとハーミスはともに、戦前、日本を親善訪問したことがあり、なかでもドーセットシャーは昭和11(1936)年、本島さんたち66期生が在校中に江田島に寄港、日本の海軍兵学校生徒が艦内を見学したり、英乗組員が来校して交歓した、思い出深い艦だった。 >4月5日、赤城艦爆隊が攻撃目標にしたのは、そのドーセットシャーである。 >ドーセットシャーには、赤城、蒼龍の九九艦爆35機が投下した250キロ爆弾のほとんどが命中し、攻撃開始からわずか13分で、艦首を海面上に垂直に突き出して沈んでいった。 >コンウォールもまた、飛龍艦爆隊18機の攻撃により、18分で沈没した。 >「ドーセットシャーに向かって急降下しながら、あのときは、戦争というのはむごいものだと思いましたね……。 >ほんの数年前には、互いに親しく肩をたたき合った仲なのに。 >戦果は挙がりましたが、後味の悪さが残りました」 >本島さんは4月20日、こんどは第二航空戦隊の空母蒼龍(そうりゅう)分隊長となり、5月には大尉に進級した。 >蒼龍では偵察分隊長として、新たに配備された十三試艦上爆撃機(のちの彗星)2機を所管することになる。 >ミッドウェー海戦 >「これはダイムラーベンツの液冷エンジンを積み、引込脚で、最高速力318ノット(時速約590キロ)、これまでの九九艦爆とは全く違う、高性能な飛行機でした。 >偵察機としても、両翼下に増槽(落下式燃料タンク)をつけると半径600浬(カイリ・約1100キロ)の索敵行動が可能でした。 >液冷エンジンの試作機であるために整備がむずかしく、整備員と操縦員は、横須賀海軍航空隊でテストを担当していた者が蒼龍に転勤する形で配置されました。 >増槽をつけたままではフラップがおろせない欠点もありましたが」 >昭和17年6月5日、ミッドウェー海戦。 >重巡洋艦利根の出した索敵機からの「敵艦隊発見」の報告を受け、蒼龍から十三試艦爆1機が触接(しょくせつ)のため発進した。 >「すでに、敵の艦上機らしいのが、入れ代わり立ち代わり攻撃に来ていました。 >飛行長・楠本幾登中佐に、『おい分隊長、そろそろ出番だぞ』と言われ、航空図に必要事項を書き込んで、飛行服に着替えようとしたところでバーンとやられたんです。 >敵の急降下爆撃機は、雲をうまく利用して爆撃を加えてきました。 >艦首に1弾、続いて2弾めが飛行甲板中央に命中。 >私は発着艦指揮所にいましたが、爆風で飛ばされて転倒しました。 >幸い、負傷はありませんでしたが、着ていた雨衣の背中は黒焦げになっていました」 >3発の命中弾が艦内の誘爆を呼んで、蒼龍は大火災とり、約9時間後、艦首を上げ後部から沈んでいき、海面から没して8分後、水中で大爆発を起こした。 (略) >「宮仕えはたくさん」 >フィリピン戦のわずか2ヵ月でK5は壊滅。 >新鋭機流星の部隊として再編されることになり、搭乗員の補充を受けて錬成を始めたが、本島さんは1月末、肺炎に倒れて入院を余儀なくされた。 >2ヵ月後には横須賀海軍航空隊分隊長として現場に復帰、高岡迪少佐とともに日本初のジェット機橘花(きっか)のテストパイロットに選ばれたものの、橘花試作1号機は8月12日、高岡少佐による二度めの試験飛行のさいの事故で破損し、本島さんはジェット機操縦の機会のないまま終戦を迎えた。 >当時28歳、海軍少佐だった。 >海軍の解体で失職した本島さんは、昭和21(1946)年、医師の道をめざそうと東京慈恵会医科大学に入学した。 >その後、飛行機の操縦技倆や指揮官としての能力を惜しむかつての上官や同期生などを通じ、自衛隊や日本航空からの熱心な勧誘も受けたが、「もう宮仕えはたくさん」と、断っている。 >昭和22年に結婚し、姓が本島と変わった。 >本島家は、群馬県に江戸時代初期から続く医師の家系で、その当主は代々「自柳」の名を世襲している。 >もとは開業医だったが、昭和16年、病院として認可を受けた。 >本島さんは外科を専攻し、昭和32(1957)年には医学博士の学位を取得。 >同年、岳父の死去にともない、院長、理事長として病院経営にあたることになった。 >病院は、平成元(1989)年、総合病院の認可を受け、本島総合病院となっている。 >海軍兵学校の同期生の多くが、病気になったさいには本島さんの執刀で手術を受けたという。 >「人生を振り返ってみると、戦争で生き残ったこともふくめて、私はほんとうに運がよかった。 >戦争でのいろいろな体験を書き残したら、と勧めてくれる人もいますが、不幸にも死んでいった非常に多くの上官、戦友、部下たちのことを思うと、自分のことで何かを書き残そうという気には到底なれないまま、今日に至っています」 と、本島さんは言った。 >これは、生き残った指揮官たちに共通する思いだろう。 >医師・本島自柳さんは、かつて大淵珪三少佐であった戦時中のことを胸に秘め、私以外のインタビューには応じないまま、平成17(2005)年10月、88歳で亡くなった。 >真珠湾攻撃に参加した日本側の飛行機搭乗員は、本島さんをふくめ765名。 >約8割にあたる617名が終戦までの3年9ヵ月におよぶ激戦のなかで戦死、あるいは殉職し、生きて終戦の日を迎えたのは148名に過ぎない。 >真珠湾攻撃から50年後の平成3(1991)年、生き残り搭乗員がまとめた名簿では、ちょうど半数にあたる74名の住所氏名が記されているが、最後の生存者だった吉岡政光さんが昨年(2024年)8月、106歳で亡くなり、現在、生存者は一人もいない。 >歴史は確実に遠ざかってゆく。 >けれども、戦争の記憶は風化させてはならない。
そうですね。 日本の平和運動は体験者の証言だけにずっと依拠し続けてきた。体験者は現実を語る者であるが、平和の礎には政治の仕組みを調べ、「改革」「運動」「参加」に関する考え (非現実) の内容を語る人が必要である。非現実の内容 (考え) は高等教育の成果から得られるものである。 政治には未来 (非現実) の先取りが必要である。だが、日本人には現実があって、非現実がない。だから、日本人は現実にとらわれて行き先を見失い政治が迷走する。
日本人は思考を停止しているから、自分自身の意見を明らかにできない。わが国のマスコミの編集長でも例外ではない。だからいくら外部の情報を流しても、それが社会の木鐸の役割を果すことはない。「それでどうした、それがどうした」の問いに答えが出せないのである。我々日本人は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だから個人の価値が低い。[木鐸=ぼくたく:世人を教え導く人] 高等教育機関において自己の個人的な見解を明らかにすれば学位 (博士号など) が得られる。ぜひやるべき勉強です。 イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。 何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
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