>現代ビジネス >「人間魚雷」と呼ばれた特攻兵器「回天」の搭乗員が終戦時に感じた「身の置きどころのない思い」 >神立尚紀 (カメラマン・ノンフィクション作家) の意見・ >2時間・ >今年は戦後80年。昭和20(1945)年8月15日正午、天皇自らが全国民に語りかける「玉音放送」で、戦争終結が伝えられた。 >日本政府はこの日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と定め、東京の日本武道館で毎年、全国戦没者追悼式が挙行されるのをはじめ、全国各地で戦没者、戦争犠牲者の追悼行事が行われている。 >ここでは、私がこれまで30年にわたってインタビューしてきた、最前線で戦っていた海軍軍人だった人たちそれぞれの「8月15日」を振り返り、シリーズで紹介しようと思う。 >なお、証言者の多くは、残念ながら鬼籍に入っている。 (略) >いよいよ出番だ、こんどは俺がゆくぞ >潜水艦から爆発音が確認された回天のなかには、こうした無念の自爆を遂げたものもあるとみられる。 >母潜が近くにいる場合には、自爆すると巻き添えにする可能性があるのと、音で敵に位置を知らせてしまうので、黙ってハッチを開いて自沈する。 >「ただし、私たちは自沈に備えて自決用の青酸カリなどは渡されていませんでした。 >出撃のときもらった短刀も、愛する回天のなかで腹を切ったりして、ぶざまな恰好で死にたくないと思い、私は持って行きませんでした」 >7月14日、多聞隊にいよいよ出撃命令がくだる。 >勝山隊6名が搭乗する回天6基は、伊号第五十三潜水艦(伊五十三潜)に搭載され、出陣式のあと基地の隊員総員の見送りを受け、出撃した。 >搭乗員は各自の回天の上に立ち、「七生報國」と墨書された鉢巻を締めて、二度と日本の土を踏むことはないのだという悲壮感と、敵艦撃沈の使命感が激しく交錯する思いで、力の限りに両手を振ってこれに応えた。 >「このときは、よし、いよいよ出番だ、こんどは俺がゆくぞ、任せとけ、という気持ちが強かったですね……」 >敵艦を攻撃する予定地点は、沖縄とフィリピン・レイテ島を結ぶ線上である。伊五十三潜は、日中は潜航し、日没を待って浮上することを繰り返しながら、予定戦場に向かった。 >密閉された潜水艦内にいると、昼と夜との区別はつかない。 >竹林さんたち回天搭乗員の居室は、魚雷発射管室に臨時に設けられた寝台だった。 >酸素の節約のため、用のないときは寝ていることになっているが、高温高湿の艦内では、じっとしていても汗が噴き出してくる。 >風呂もシャワーもない。 >いつ敵艦と出会うかわからない戦闘航海が続く。 >7月24日午後、伊五十三潜はバシー海峡東方海面で、敵輸送船団を発見した。 >艦長・大場佐一少佐より「回天戦用意」が発令される。 >勝山中尉は一号艇に、あとの5名の搭乗員も、艦内から交通筒を通ってそれぞれの回天に搭乗した。 >搭乗員は、半袖の防暑服に飛行靴(半長靴)、鉢巻といういで立ちである。 >後のプロ野球盗塁王・阪急ブレーブス福本豊選手の父・福本豊治兵曹が、交通筒のハッチを艦内から閉めた。 >回天本体のハッチは、搭乗員が自分で開けて、乗艇したら内部から閉める。 >両方のハッチが閉まると、交通筒のエアーを抜いて海水を入れ、回天はいつでも発進できる状態になる。 >「私は四号艇に搭乗しました。 >回天の操縦室は、直径1メートル、長さ1.5メートルほどの空間に、操縦装置が所狭しと配置されていて、座ると足も伸ばせない狭さです。 >私の四号艇は、母潜の後甲板、一号艇の真後ろに固縛されていました。 >特眼鏡をのぞくと、海面からの明かりで、一号艇が目の前に見えました。 >『一号艇発進』、艦長の指示がレシーバーを通じて聞こえてきます。 >『一号艇発進用意よし』、勝山中尉の声が聞こえた瞬間、一号艇のスクリューが回り、エンジンの排気で、私の特眼鏡の視界が一瞬、真白になった。 >あとには、主なき架台と交通筒が残るのみでした」 >ついにくだる「回天戦用意」の命令 >艦長の判断で、このときの発進は勝山艇だけで中止となり、「用具収め」の命令で、交通筒にエアーが充填され、竹林さんたちはふたたび艦内に戻った。 >そしてほどなく、ゴーンと、胸の底を刺すような爆発音が響いてきた。 >勝山中尉は米駆逐艦「アンダーヒル」に命中、それを瞬時に沈没させたのだ。 >「アンダーヒル」の艦体は真二つに割れ、艦長以下112名の乗組員が戦死した。 >回天は通算して、少なくとも敵艦船3隻を撃沈、4隻を損傷させたことが判明しているが、結果としてこれが、命中した搭乗員が特定できる唯一の戦果となった。 >伊五十三潜はなおも作戦行動を続行し、7月29日には、川尻勉一飛曹の二号艇が、米輸送船に向け発進している。 >8月3日午後、潜航中の伊五十三潜は突然、数隻の敵駆逐艦と遭遇、激しい爆雷攻撃を受けた。 >頭上を航走する敵艦のスクリュー音が生で聞こえる。 >至近弾の炸裂、鋭い衝撃、艦内の電灯が消える。 >執拗な攻撃。 >回天搭乗員・関豊興少尉が、「このままでは潜水艦もろともやられてしまいます。 >頭上の敵艦と刺し違えますから、回天を出してください」と、艦長に詰め寄った。 >日付が変わって8月4日、爆雷攻撃は激しさを増す。 >ついに「回天戦用意」の命令がくだった。 >残る4名の回天搭乗員は、それぞれの回天に乗艇した。 >「そのときの感覚というのは、生死の極限状況を体験した者でないとわからない。 >絶対の岐路に立った気持ちは、言葉で言い表すことはできません。 >どんな哲学者でも心理学者でも、正解は出せないんじゃないでしょうか」 >発進命令。 >深度40メートル、訓練でも経験のない深さである。関少尉、荒川正弘一飛曹の回天が発進。 >しかしそこで、残る二基の回天に不測の事態が起こった。 >坂本雅俊一飛曹艇は故障で発進不能、竹林さんの艇は、爆雷の衝撃で、エンジン起動時に起動弁に注入する四塩化炭素の瓶に亀裂が入り、有毒ガスが艇内に充満、竹林さんは人事不省に陥った。 >――関、荒川艇の発進が功を奏して、まもなく敵艦の攻撃はやんだ。 >伊五十三潜の艦内に引き下ろされた竹林さんが意識を取り戻したとき、大場艦長が、「お前にはてこずったぞ。 >泣きながら、出してくれと叫ぶんだからな」と声をかけた。 >その間の記憶は竹林さんにはない。 >終戦を告げる天皇の玉音放送 >それからわずか11日後の8月15日、竹林さんは、呉軍港に帰投した伊五十三潜の甲板上で、終戦を告げる天皇の玉音放送を聞いた。 >それまで考えもしなかった「敗戦」という現実。 >衝撃に頭のなかが真白になった。 >戦後、生まれ故郷の北海道に帰った竹林さんは、30年にわたり炭鉱に勤務、無我夢中で働いた。 >職員組合の幹部に就任、労働運動の先鋒に立ったこともあれば、会社の労務部長として組合側と対峙したこともある。 >炭鉱が閉鉱し、残務整理を終えたのちは職業訓練校の事務長や町内会長などを務めた。 >「炭鉱での過酷な勤務をはじめ、社会人としての種々の職業体験を通じて、私を支えてくれたのは、回天での経験で培われた精神でした。 >私はね、奇跡の生還者ではなく、死ぬべくして不幸にも死ねなかった、死にぞこないなんです。 >戦後もそのことを考えると悶々とした日々を送りましたし、自分が生きていることには、いまもって戸惑いを覚えています。 >けれども生かされて今日あることを思えば、その事実を語る使命と重責を感じます。 >戦争の再現は望まない、美化するつもりもない。 >ましてや特攻の生き残りだからといって、命を粗末に考えているわけでは決してない。 >しかし、あの時代、自らの死が日本を救うと信じて戦った若者たちがいたことは、正しく歴史に刻み込んでほしいと願っています」 >でも……と、竹林さんは続ける。 >「戦後、男の子を二人もうけて、親となった立場で回天を考えたら、腸(はらわた)をかきむしられる思いがしますね……。 >残された親御さんの思いはいかばかりであったかと、胸が痛みます」 >戦争は、「死ぬことに疑問を抱かなかった」という純真な若者たちを死地に投じ、戦没者の数だけ、悲嘆に暮れる遺族を生んだ。 >竹林さんの回天が無事に発進していれば、竹林さんのその後の人生はなく、子供たちも生まれてこなかった。 >もし、伊五十三潜が爆雷攻撃で撃沈され、乗組員だった福本兵曹が戦死していれば、のちの「盗塁王」がこの世に生を受けることもなかった。 >運命はまさに紙一重。 >戦争により失われた命と、無限の未来。 >残された遺族の思い、そして自らを「死にぞこない」と呼ばざるを得ない生還者たちの心の葛藤――。 >戦後80年。当時の体験を正しく伝承することも困難になりつつある。 >近年では、〈私はどんな敵だって怖くはありませんが、やはり母さんの涙が一番怖いんです〉という、後年創作された「偽遺書」が、「18歳の回天特攻隊員の遺書」として流布され、政治利用されたりもしている。 >だが、戦争に対する反省も、特攻作戦に対する批判も、戦いに斃れた若者たちへの哀悼も、すべては「事実」の上にのみ成り立ちうる。 >ファクトなき「作り話」で得られた感動は、幾多の先人たちの命と引き換えに得た平和の意味をも疎かにするものだろう。 >まずは遺された生還者の声にこそ、耳を傾けたい。
日本の平和運動は体験者の証言だけにずっと依拠し続けてきた。体験者は現実を語る者であるが、平和の礎には政治の仕組みを調べ、「改革」「運動」「参加」の考え (非現実) の内容を語る人が必要である。 この非現実の内容 (考え) は英米流の高等教育の成果から得られるものである。 歌詠みには意味がなく考えを得ることは不可能である。 政治には未来 (非現実) の先取りが必要である。だが、日本人には現実があって、非現実がない。だから、未来社会が見えていない。日本人は現実ばかりにとらわれていて行き先を見失い政治が迷走する。
ウクライナはソ連崩壊により核兵器を放棄した。しかし、プーチン大統領は非核国ウクライナに侵攻し核兵器使用をちらつかせて恫喝した。 これにより我が国の非核三原則に依拠した安全神話は消滅した。非核三原則とは 核兵器を「持たない、つくらない、持ち込ませない」の三原則を指すものと1967年 (S42) 12月に佐藤栄作首相は説明した。日本人のお花畑はもうない。 「世界大戦を含むあらゆる戦争はすぐ終わらせられる。講和条約を結んだ場合、あるいは1945年の米国による広島と長崎への原爆投下と同じことをした場合だ」 (ロシアのメドベージェフ前大統領) ‘ウクライナでの戦争の教訓は、抑止力によって未然に戦争を防ぐ方が、侵攻してきた敵を後退させることよりも遥かに望ましいということだ。’ (マシュー・ポッティンジャー) ‘ロシアが力による現状変更を行っている国はG7(主要7カ国)では日本だけだ。北方領土だ。だから、ウクライナ問題で、ロシアを一番強く批判しなければいけないのは日本だ。’ (小野寺元防衛相) 戦わずして人の兵を屈するは、善の善なるものなり。= 真に勝つことは自らの力を増すことで、戦わずして勝つことが最善である。 わが国は平和国家であるから自国の強大な抑止力 (物量) を相手国に見せつけながら、国家の最善を目指さなくてはならない。
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