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2025年08月15日(金) 

 

>文春オンライン   >「天皇と日本国民も騙された被害者だった」というフィクションはなぜ定着したのか? 昭和50年代生まれの気鋭4人が語る〈令和の天皇論〉   >浜崎洋介、與那覇潤、先崎彰容、辻田真佐憲によるストーリー・   >1時間・   

>「天皇と戦争の関わり」をどう考えればよいのか。   

>「天皇」とはいかなる存在なのか。   

>「今後の皇室」はどうあるべきなのか。   

>昭和50年代生まれの4人の気鋭の論者が徹底討論した。   

>◆◆◆   

>東京裁判史観を超える   

> 先崎彰容(以下、先崎) 天皇の存在には、おそらく我々が饒舌には語れない何かがあるように思います。   

 

そうですね。日本語文法には階称 (hierarchy) があり、日本人には序列メンタリィティがありますからね。   

 

> 終戦1周年の前日、昭和天皇は、閣僚らを集めた茶話会で、敗戦について語るのに、663年の白村江の戦いでの日本の大敗を引き合いに出している。   

>ある場で僕がこの話をしたら、聴衆に笑われたのですが、1300年以上も前の歴史を、昭和天皇は自然に口にされた。   

>これほど長い歴史感覚で生きている存在と私たちの距離を強調したい。   

 

そうですね。日本人は序列に関する内容には記憶が良い。国体は人体の様なものですね。      

 

>昭和天皇が感じていた「責任」というか「歴史の重み」は、今日の我々が思うような「責任」の概念では測れない。   

 

日本人の責任という言葉には意思がない。義務だけの責任は、牛馬の苦役と似たようなものになる。   

自由とは意思の自由のことである。意思の無い日本人には自由自体にも意味がない。’不自由を常と思えば不足なし’ ということである。江戸時代と似たような生活になる。   

 

> 辻田真佐憲(以下、辻田) 昭和天皇の人間宣言の時に、自身の神格は否定しても、神裔(神の子孫)であることは否定しなかったという話があります。   

>だからこそ天皇は今も宮中祭祀を続け、国民のために祈っている。   

 

そうですね。天皇は序列国家の象徴ですね。   

 

> 與那覇潤(以下、與那覇) 昭和天皇を対外的な法的責任から除外したのは、よくも悪くも東京裁判の「成果」ですね。   

> 辻田 乱暴に言ってしまえば、この裁判は一種の“手打ち”“セレモニー”でした。   

>ヤクザの抗争でもそうですが、正しいか正しくないかではなく、納得できない部分を抱えながら、一応これで決着をつけようとしたわけです。   

 

日本語の文法を批判してもおいそれと直せませんからね。   

 

> ところが、もう一つ重要なのは、この手打ちであったはずの東京裁判が、我々自身の歴史観をも大きく規定していることです。   

> 裁判では1928年の張作霖爆殺事件から敗戦までが訴追対象となりましたが、「戦争」を考える上で、この時間軸の切り取り方は今も一般的になされています。   

> 浜崎洋介(以下、浜崎) 東京裁判では、日本の指導者たちの「共同謀議」も問われましたが、さきほどの戦争期間に、15人も首相が代わった日本政府において「共同謀議」など成り立つのか。  

 

政府の共同謀議などは必要でない。政府は事の次第とそのなりゆきにしたがって動くだけですからね。兎角この世は無責任。      

 

>敗戦直後は“手打ち”の対外的セレモニーとして受け入れるしかなかったとしても、これを我々自身の歴史観とする必要は全くないでしょう。    

 

そうですね。日本人はあくまでも無哲学・能天気ですからね。   

 

> 與那覇 それはそうです。   

>「共同謀議」論は、偶発的な出来事の連鎖の背後には、一貫した邪悪な“意図”があったと想定している。   

>今風に言えば“陰謀史観”に近い。    

> 辻田 歴史は常に現在の視点から再解釈されるものですからね。   

>当時の対米関係をベースにしているのであれば、トランプの登場で米国自身が変わっていくなかで、日本の歴史観も変わっていくのが自然です。   

 

そうですね。日本人は常に自然の中に生きている。アニマルも同じである。      

 

> 與那覇 ただ、それでも僕は、東京裁判は非常によくできた“フィクション”だったと捉えたい。   

>「共同謀議」に関わった“悪い奴ら”の中に、あえて昭和天皇を入れなかった。   

>「天皇と日本国民もまた、騙された被害者だった」というフィクションを創作し、手打ちを可能にした。   

 

そうですね。日本人には意思がない。意思のない人間には責任がない。ちょうど死刑執行人の様なものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。   

 

責任のある者は信頼される。そして尊敬される。

だが日本人には意思がない。意思の無い人間には責任がない。だから信頼されることはない。一旦事が起これば、責任者捜しのために騒ぎが起こる。日本残酷物語の様な騒ぎになることもある。これは英米の文化とは違う。   

肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。

徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り) 

 

>この春に上梓した『江藤淳と加藤典洋』でも論じましたが、そうした「免責の物語」を、戦災に遭った日本人自身が求めたからこそ定着したんです。    

>靖国問題がなぜこじれるのか   

> 辻田 日本が連合国中心の国際社会に復帰するためには、判決を受け入れるしかなかったわけですね。   

> 浜崎 とはいえ、今や米国への忖度が効かない時代です。   

>だからこそ、あの戦争をどう捉えるのかを足元で問う必要があるんでしょう。    

 

そうですね。供養すれども学習なしでは許されませんね。過ちを二度も三度も繰り返します。防ぐ手段が開発されていない。         

 

> 與那覇 国際政治の観点では、東京裁判で最も重要なのは、その物語を裁判に加わっていない中華人民共和国も受け入れたことです。    

> 当時、連合国に入っていたのは中華民国(現・台湾)の方ですから。   

>1972年の日中国交正常化の際、中国としては「東京裁判での“手打ち”は、蒋介石が勝手にやったことだ」と突っぱねる選択肢もあったけど、国際社会で機能しているフィクションだからと乗ることにした。   

> つまり彼らの視点では、ここで大きな妥協をしている。   

>A級戦犯を祀る靖国神社への首相の参拝を許容しないのも、あの時ずいぶん譲って「同じ物語」に乗ったのに、後から手のひらを返すのはダメだよと。    

 

戦争犯罪人に首相が参拝するのは間違っていますね。罪を知らない日本人はめちゃくちゃです。      

 

(略)    

(浜崎 洋介,與那覇 潤,先崎 彰容,辻田 真佐憲/文藝春秋 2025年9月号)

 

 


閲覧数29 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2025/08/15 17:38
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