>東京新聞 >「追悼文送らない」小池百合子知事に「看過できない」追悼式典実行委が抗議声明 関東大震災の朝鮮人虐殺 >3時間・ > 1923年の関東大震災の際に虐殺された朝鮮人犠牲者らを追悼する式典に、追悼文を9年連続で送らない意向を示した東京都の小池百合子知事。 >式典の実行委員会は25日、抗議声明を提出した。 >都庁で会見した宮川泰彦実行委員長は「看過できない。 >都と追悼式典との関係は決して浅くない」として再考を求めた。
そうですね。
>◆「歴代都知事が追悼文を送ってきた歴史がある」 > 実行委は毎年9月1日、墨田区の都立横網町公園内にある追悼碑前で追悼式典を主催。 >宮川さんは「碑は都の所有で、歴代都知事が追悼文を送ってきた歴史がある」と強調した。
現実肯定主義の強調ですね。
> 小池知事は就任直後の2016年は追悼文を送ったが、2017年以降は「都慰霊協会が営む大法要で、関東大震災とその極度の混乱の中で犠牲となられたすべての方々へ哀悼の意を表している」などとして送っていない。
日本人には意思がない。だから加害者意識がない。罪の意識もない。だから虐殺の内容を学習するこだわりもない。 震災は天災であり、虐殺は犯罪である。極度の混乱として一括して哀悼の意を表す性質のものでもない。これらを区別ができないのは野蛮国である。 今回の事例は ‘供養すれども学習なし’ ということですね。これはいつものやり方ですね。これでは過ちを繰り返しますね。軽卒至極ですね。
> 実行委は今月4日、小池知事宛ての追悼文送付の要請書を都に提出。 >12日に公園を管理する都公園緑地部から「送付いたしません」との回答があった。 >抗議声明を受けた同部の担当者は「都庁内の関係部署に伝える」と話した。 >(奥野斐)
日本人は思考を停止しているから、自分自身の意見を明らかにできない。わが国のマスコミの編集長でも例外ではない。だからいくら外部の情報を流しても、それが社会の木鐸の役割を果すことはない。「それでどうした、それがどうした」の問いに答えが出せないのである。我々日本人は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だから個人の価値が低い。[木鐸=ぼくたく:世人を教え導く人] 英米流の高等教育機関において自己の個人的な見解を明らかにすれば学位 (博士号など) が得られる。ぜひやるべき勉強です。 イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。 何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
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