>J-CASTニュース >「石破おろし」麻生太郎氏に「最高顧問なのに参院選惨敗の責任とらないの?」 支持派からは参政党との接近に期待も >J-CASTニュースによるストーリー・ >18時間・ >自民党の重鎮である麻生太郎最高顧問は2025年9月3日、派閥の研修会で「総裁選の前倒しを要求する書面に署名し、提出する」と明言し、石破茂首相に退陣を迫った。 >だが、84歳の"古い自民党"の象徴とも言える政治家がいまだに発言力を持っていることに、SNSでは「前倒しすべきは麻生太郎の政界引退」の声が噴出した。
人間序列は容易には崩れませんね。日本人は自己の属する序列に強い帰属意識をもっていますね。
>一方で「アンチ石破派」からは、麻生氏の動きを歓迎する様子がみられる。
序列の内外では動きが逆になりますね。
>鈴木宗男氏「あなたが出ることで、また自民党の支持は下がる」 >麻生氏は会合で、7月の参院選について「惨敗は明らかだ」と強調。 >「次の衆院選に勝利できる体制を整えなければならない」と語り、石破おろしへ号砲を鳴らした。
日本の組織は地位があってその責任がない。
>だが、大手メディアの世論調査では8月に石破内閣の支持率が軒並み上昇。
石破氏以上に人気のある政治家はいないのでしょうね。彼は鳥なき里の蝙蝠ですね。
>SNSでは、これまで冷遇された旧安倍派などの裏金議員が石破おろしの主力となっていることへの嫌悪感、より右派的な主張が強い高市早苗氏が次の首相候補に挙がることへの警戒感を示す反応が根強い。 >このタイミングで麻生氏が総裁選前倒し要求を表明したことが、X(旧Twitter)では火に油を注ぐ事態に。 >「自民党は、石破をおろすよりも麻生をおろす方が先ではないか?」
政治家は地位の問題に固執していますね。
>「麻生さんは確か『最高』顧問なんすよね?あなたは『惨敗』の責任をどのようにとるおつもりか?」など批判の声が殺到した。
日本人の責任者には責任がない。西洋人から見たら我が国は詭弁の通用する社会ですね。
>麻生氏といえば、16年前に自民党の下野を招いた張本人で、13年前に自民党が政権奪還した後は副総理として長く政権の中枢に居座り続けてきた。 >このため、逆に「麻生辞めろ」のハッシュタグがXのトレンド入りするという事態が起きている。
地位の問題に固執していますね。責任のない高い地位は座り居心地がよいでしょうね。
>フリーライターの武田砂鉄氏は、旧態依然とした自民党の動向にこう皮肉を込めた。 >(以下引用) >「『解党的出直し』を宣言した後で、早速、『派閥領袖の麻生氏が動いた(ので私も)』となる、出直してない感」 >(以上引用) >自民党内でも、麻生氏の動きを牽制する声もある。 >石破首相を支持する鈴木宗男参院議員は、次のように発言した。 >(以下引用) >「私は麻生さんが前倒し賛成だと言えばですね、逆に世論は冷静な判断をして、よくぞ言ってくれた、あなたが出ることによって、またこれで自民党の支持は下がりますよという流れになってくると思います」 >(以上引用) >平将明デジタル相も名指しはしなかったものの「いまだに派閥があるのかという感想を持った」と言及。
そうですね。日本人は序列社会の序列人間ですからね。派閥はなくなりませんね。
>「自民党が先祖返りをしてしまう」と苦言を呈した。
そうですね。それは日本人の故郷ですね。
>参政党・神谷代表が麻生氏に助言求める >その一方で、これに先駆けて奇妙な動きも見られた。 >参政党の神谷宗幣代表と麻生氏が8月28日に会談。 >そして神谷氏は9月3日、フジテレビ元取締役の反町理氏のYouTubeに出演し、自分から麻生氏へ相談を持ちかけ、組織運営について助言を求めたことを明かした。 >参政党は、参院選では自民離反票の受け皿として躍進を果たしたと見られている。 >古い自民党の象徴とも言える麻生氏と接近する動きにXでは、参政党支持者とみられるアカウントから「アドバイス受けるのは良いけど、連立入りだけはやめてほしい」「神谷宗幣は取り込まれません」との声があった。 >一方で、同じく支持者のアカウントからは「麻生さんの政治家としての力量は相当なものですからね」 >「党は違えど多方面に繋がりを作ることに何も不安はない」など、むしろ2人の対談を称賛するかのような反応も目立った。 >8月31日に行われた「石破辞めろ」デモでは、参政党の支持者を名乗る複数のアカウントがXにデモの様子を投稿しており、自民党外から石破おろしを扇動する一つの勢力となっている。
こうした無哲学対無哲学の対決には、改革者の介入する余地はないですね。でも、改革者にこうした対決の責任がないとは言えないようですね。自国の責任ですね。
>神谷氏と麻生氏の接近にXでは、リベラル層を中心に「自民麻生太郎+参政党神谷の魔合体なら石破の方がマシという絶望的な消去法」と、その動きを警戒する見方も出ている。
政治哲学のないところには魔合体がありますね。鳥なき里の蝙蝠は絶望的な消去法の中に生きていますね。蝙蝠が悪いのか、国民が悪いのか。
日本人は思考を停止しているから、自分自身の意見を明らかにできない。わが国のマスコミの編集長でも例外ではない。だからいくら外部の情報を流しても、それが社会の木鐸の役割を果すことはない。「それでどうした、それがどうした」の問いに答えが出せないのである。我々日本人は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だから個人の価値が低い。[木鐸=ぼくたく:世人を教え導く人] 英米流の高等教育機関において自己の個人的な見解を論文にて明らかにすれば学位 (博士号など) が得られる。ぜひやるべき勉強です。 イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。 何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
わが国は資源小国である。天然資源は不足しているが、人口は一億以上ある。決して小国ではない。この人口の頭脳を活用すれば、わが国は衰退途上国から脱することができる。 我が国には人手不足はあるが、頭脳不足の話はない。日本人は思考を停止しているが、それが当たり前のことになっていて頭脳不足とは考えられていない。 わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。バラバラな単語ばかりの歌詞には意味がない。だから議論がない。ただ、気分・雰囲気・感情を伝えることにより満足している。 日本語は写生画の言葉である。現実 (事実) は見ればわかる。Seeing is believing. 現実の正解は一つしかない。問答無用である。だから、日本語はご唱和の内容になる。 非現実 (考え) の内容は見ることができない。だが英語の文法により文になる。だからその内容は理解できる。文にならないものは考えではない。日本語の内容では考え (非現実) にならない。 矛盾を含まない文は、全て正しい考えを表している。考えは、一人一人違っているから、正解は無数にある。考えの優劣を競い合う議論も可能になる。
体系のない日本人の発想は哲学には成らずして、空想・妄想になる。これを白昼夢というのかな。大学での哲学は成果が上がらないが、お陰様でわが国は、漫画アニメの大国になりました。 体系的な考えは哲学になる。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy. 日本人には自己の考え (非現実) がない。だから、わが国のインテリは受け売り専門の人になる。思考を停止している人は、つかみどころのない人間になる。 つかみどころのない人間の批判は愚痴・わがままとなり、議論は単なる言い争いに終始する。’和を以て貴しとなす’ の教えと事なかれ主義の圧力により人類の進歩は期待できない。
イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。 評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)
大学などの高等教育機関で論文作りに励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。 私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。 政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。 我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。 ‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)
|