>日刊スポーツ >news23小川彩佳が痛烈皮肉「再放送を見ているよう」総裁選、昨年と同じ5人の戦い構図に >日刊スポーツ新聞社によるストーリー・ >6時間・ >フリーアナウンサー小川彩佳は16日夜、キャスターを務めるTBS系報道番組「news23」(月~木曜午後11時、金曜午後11時58分)に出演。 >自民党総裁選(22日告示、10月4日投開票)に、昨年出馬した5人が出馬することを念頭に「再放送を見ているよう」と、皮肉をまじえながら指摘した。 >自民党総裁選は、昨年も出馬した茂木敏充前幹事長(69)、小林鷹之・元経済安全保障相(50)、林芳正官房長官(64)、小泉進次郎農相(44)、高市早苗・前経済安全保障相(64)の5人の戦いとなる見通しで、番組では5人や各陣営のこの日の動きについて詳細に報じた。 >小川はVTRの後、この日のコメンテーターで小説家の真山仁氏に感想を問うと、真山氏から「何か、つまんない話ばかりしていますよね」のコメントが。 >これに対し、小川は「うーん、何かちょっと再放送を見ているような。 >1年前の」と応じ、昨年と同じ顔ぶれの候補者による主張を、皮肉交じりに指摘した。 >真山氏が「(出馬表明会見は)まずは、国民に迷惑をかけてすみません、くらいから始めろよ、と思う。 >自分たちが、本当にこの国が好きで、この国をこうしたいというビジョンを語らないといけないし、それは抽象的ではなく、ここの具体的なところだけは自分がちゃんとやるんだというところを言わないと。
そうですね。日本人には世界観 (world view) がない。その日暮らしの話しかしない。話は兎角小さなものになる。
>政権与党ですから」「(自民党員以外の)ほとんどの人は投票できずに見ているんですけど、最後に恥を知りなさい、みたいな結果にならないことを望みますね」と厳しい言葉を続けた。
日本人に世界観の獲得は無理でしょうね。
>これに対し、小川は「この1年の総括といいますか、この1年何だったんだというところですよね」と指摘。 >昨年の総裁選で選ばれたばかりの石破茂首相が、「石破おろし」の党内抗争の末に辞任表明に追い込まれたことが念頭にあるのか、1年で再び総裁選が行われることに、厳しい視線を投げかけた。
党内のどの候補にも新機軸が打ち出せない。にも拘わらず総裁選で一人選ばれる。それで「〇〇おろし」が起こり、おろしの繰り返しになる。ないものは出せない。当たり前ですね。 政治には時代の先取りが必要です。そうでなければこの国が迷走する。 わが国には何でもあるが、ただ夢と希望だけがない。夢も希望も未来の国の中にある。 未来の内容を語るには、未来時制の構文が必要になる。だが日本語文法には時制 (過去・現在・未来) というものがない。だから、日本人には未来時制の作文ができない。日本人は未来の内容を話せない。未来の内容を聞こうとする人間もいない。だから夢も希望もない生活になる。
わが国は資源小国である。天然資源は不足しているが、人口は一億以上ある。決して小国ではない。この人口の頭脳を活用すれば、わが国は衰退途上国から脱することができる。 我が国には人手不足はあるが、頭脳不足の話はない。日本人は思考を停止しているが、それが当たり前のことになっていて頭脳不足とは考えられていない。 わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。バラバラな単語ばかりの歌詞には意味がない。だから議論がない。ただ、気分・雰囲気・感情を伝えることにより満足している。 日本語は写生画の言葉である。現実 (事実) は見ればわかる。Seeing is believing. 現実の正解は一つしかない。問答無用である。だから、日本語はご唱和の内容になる。 非現実 (考え) の内容は見ることができない。だが英語の文法により文になる。だからその内容は理解できる。文にならないものは考えではない。日本語の内容では考え (非現実) にならない。 矛盾を含まない文は、全て正しい考えを表している。考えは、一人一人違っているから、正解は無数にある。考えの優劣を競い合う議論も可能になる。
体系のない日本人の発想は哲学には成らずして、空想・妄想になる。これを白昼夢というのかな。大学での哲学は成果が上がらないが、お陰様でわが国は、漫画アニメの大国になりました。 体系的な考えは哲学になる。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy. 日本人には自己の考え (非現実) がない。だから、わが国のインテリは受け売り専門の人になる。思考を停止している人は、つかみどころのない人間になる。 つかみどころのない人間の批判は愚痴・わがままとなり、議論は単なる言い争いに終始する。’和を以て貴しとなす’ の教えと事なかれ主義の圧力により人類の進歩は期待できない。
イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。 評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)
大学などの高等教育機関で論文作りに励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。 私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。 政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。 我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。 ‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)
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