>日刊スポーツ >蓮舫氏「この異常さを直視すべきです」総裁選で争点にならないテーマを指摘「どうして?と思う」 >日刊スポーツ新聞社によるストーリー・ >14時間 >立憲民主党の蓮舫参院議員は3日までに、自身のX(旧ツイッター)を更新。 >4日に投開票される自民党総裁選で、「政治とカネ」が候補者間の争点になっていないことに「どうして?」と、強い疑問を呈した。 >2日夜に、Xを連続更新した蓮舫氏は、企業・団体献金禁止法案を提出してきた党の動きを記しながら、「禁止より公開」の姿勢を崩さない自民党に言及。 >「自民党は、常に反対してきました。 >なぜ『禁止』に背を向けるのでしょうか」と投稿。 >別のポストには「企業献金を受ける一方で、政権は法人減税を進め、増税や社会保障費の引き上げを繰り返してきました。 >結果、非正規雇用は増え、物価高の中で生活は苦しくなる一方です。 >『あなたのための政治』とは言えない仕組みです」と記した。 >その上で「『裏金問題』も、まだ終わっていません。 >検察の捜査は続いており、国会での説明責任も果たされていません。 >それなのに総裁選では、政治とカネが争点にならない。 >どうして?と思うのです。 >この異常さを直視すべきです」と、総裁選で裏金問題が争点になっていないと、強く訴えた。
そうですね。わが国には個人がない。個人の育たない国である。個人意見に魅力のない国である。だから企業・団体の後ろ盾が必要になる。
>「政治資金の透明化は『改革』ではなく『最低限の前提』です」とした上で「どなたが新しい総理になっても、国会で徹底して問い続けます。 >私は声をあげ続けます」ともポストし、新しい総理総裁が今後臨む国会論戦での「追及」を、宣言した。
日本人は思考を停止しているから、自分自身の意見を明らかにできない。わが国のマスコミの編集長でも例外ではない。だからいくら外部の情報を流しても、それが社会の木鐸の役割を果すことはない。「それでどうした、それがどうした」の問いに答えが出せないのである。我々日本人は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だから個人の価値が低い。[木鐸=ぼくたく:世人を教え導く人] 英米流の高等教育機関において自己の個人的な見解を論文にて明らかにすれば学位 (博士号など) が得られる。ぜひやるべき勉強です。 イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。 何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
やられたら、やり返す。インド人はいつも雄弁である。だから、インド人の知的能力を英米人は高く評価している。彼らの社会は ‘ため口社会’ である。議論が自由にできる。[ため口: 相手と対等の立場でものをいうこと] 日本人は‘ロン・ヤス’の関係を求めている。この方法で議論が避けられると思っている。これは馴れ合いである。議論の結果は得られない。馴れ合いを得意とする政治家は要注意である。透明度の低くさは民主主義の敵である。 日本テレビの単独インタビューで「このままでは日本人は滅びる」と日本の将来に危機感をあらわにしていた、ファーストリテイリングの柳井正会長兼社長。[2024年 10月] 10日の会見でも「日本人同士のなれ合いみたいなことは廃止すべき」と改めて警鐘を鳴らしました。 日本人は‘なあなあ主義’ で話をする。‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。‘以心伝心・阿吽の呼吸・つうかあの仲’といったところか。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。 「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
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