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>TBS NEWS >自社さ連立 村山元総理死去 「無私の人」が遺したものとは…「村山談話」に込めた思い【サンデーモーニング】 >TBS NEWS DIG_Microsoftによるストーリー・ >13時間・ >10月17日に101歳で亡くなった村山富市・元総理。 >それまで対立してきた自民党と社会党が手を取り合う形になった当時の村山政権。 >連立とは何か、いま改めてその在り様が問われています。 >「水と油」を覆した 自社さ連立政権誕生の衝撃 >子どもリポーター >「総理はなぜ眉毛が太いのですか?」 >村山富市 総理 (1994年8月当時) >「これは…自然にこうなったんですよ」 >トレードマークは長い「まゆ毛」。 >「トンちゃん」の愛称で親しまれた村山富市元総理が10月17日に亡くなりました。 >1924年、大分市生まれ。 >働きながら通った大学在学中に、学徒として徴兵されます。 >終戦後、労働運動に身を投じ、1972年、社会党から衆議院議員に初当選。 >55年体制のもと、自民党と相対します。 >1993年には社会党委員長に就任。 >社会党 村山富市 委員長(1993年9月当時) >「連立政権に期待する多くの国民の皆さんの期待に応える、その一翼を社会党も担って、責任を全うしていきたい」 >非自民の細川連立政権に加わり、政権交代を果たしました。 >ところが翌年の1994年、細川政権がわずか8か月で総辞職。 >後を継いだ羽田政権で、連立内の不協和音が表面化し、社会党は政権から離脱します。 >土井たか子 衆院議長 (1994年6月当時) >「村山富市さんを総理大臣に指名することに決まりました」 >当時、国会で第2党だったにもかかわらず、自民党や、新党さきがけに担がれ、総理に就任。 >55年体制で「水と油」のごとく対立してきた自民・社会が手を組んだ政権誕生に、世間は驚きました。 >批判必至の方向転換 村山元総理の覚悟 >当時、新党さきがけの代表代行として、村山さんに総理就任を打診した田中秀征さんは... >福山大学 田中秀征 客員教授 (元新党さきがけ代表代行) >「もう声まで覚えている。 >(村山さんは)『あんた、わしをバカにしているのか』と怒鳴った。 >いつ総理になる覚悟をしたんだと聞いたら、『首班指名された時だ』と。 >それまでやる気はなかった。 >そういう(無欲な)人」 >そうして発足した村山内閣は、それまでの社会党の方針を一転させ、自衛隊を「合憲」とし、日米安保を認めるなどしたのです。 >村山富市 総理 (1994年8月当時) >「これくらいは踏み切って乗り越えていかなければ、政権党の役割は果たせない。 >それは何も理念を変えるというわけではなく、現実に対応するべく政策は変える必要がある」 >「現実」に合わせようと、大きく舵を切った村山さんは、「自社さ」の連立についてこう語っています。 >村山富市 元総理(日本経済新聞社「私の履歴書」より) >「自民党と社会党は憲法問題、防衛問題、歴史観の相違などから激しい対立を繰り返してきた。 >それが一転して連立したため“野合政権”と批判された。 >しかし新政権はこの立場の相違をお互い認識し合い、きちんと政策合意し、信頼に基づいて発足し、国政を進めた」 >当時の村山さんの姿勢について、田中秀征さんは... >福山大学 田中秀征 客員教授 (元新党さきがけ代表代行) >「村山さんはおそらく意識していたと思う。 >あのまま保守・革新の流れでいたら、冷戦終結後の世界じゃ通らない。 >自衛隊と安保のことについては悩んで、もっと現実的な政党になろうと。 >(自社が)一緒に(連立)政権に入ることによって合意を見いだした。 >相当叩かれるはずなのに、すべて自分の責任としてね。 >村山さんみたいに『無私な人』にしかできない決断」 >長年対立してきた自民党と連立するために、全ての責任を負う覚悟だった村山さん。 >しかし、95年7月の参院選では、連立に伴う方針転換に、厳しい審判が下り、社会党は大敗。 >そうした中、迎えた「終戦の日」。 >歴史に残る、戦後50年の『村山談話』が発表されます。 >国内外に波紋を呼んだ“村山談話” >村山富市 総理(1995年8月15日) >「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで、国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して、多大の損害と苦痛を与えました。 >私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもない、この歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて、痛切な反省の意を表し、心からのおわびの気持ちを表明いたします」
日本人には意思がない。意思のない人には加害者意識がない。罪の意識もない。謝罪 (お詫び) もない。信用も得られない。痛切な反省がなければ学習にもらない。 罪を知らない人間に謝罪の話を聞かせれば、それは自虐のすすめと勘違いされる。だから拒否反応になり教育効果は上がらない。歴史の事実を謙虚に受け止めることができないのである。
>「植民地支配と侵略」、「痛切な反省」、さらに「おわび」といった言葉を盛り込んだ談話は、国内外に大きな波紋を呼びました。
植民地支配と侵略を世界史上で横並びの比較にすれば、何も出てこない。上下の比較ができれば天晴れの結論となる。
>総理退任後、2000年に政界を引退。 >晩年まで「平和」にこだわった村山さんは、かつての「談話」について、こう語っています。 >村山富市さん (2015年6月) >「村山談話というのは、何も謝ることが目的で出したわけではない。 >戦争はしないんだと、平和で生きるんだということを国で宣言する。 >そのためには、過去の歴史というものをしっかり反省をした上で、再び過ちは繰り返さないという決意で、これからこう生きるんですということを証明する必要がある。 >そういう意味であの歴史認識というものを出した」
現実対現実という横並び (現実) の比較を抜け出して、理想対現実という上下の比較に切り替えた村山史観は画期的ですね。日本人には非現実 (考え・哲学) がないので上下の比較は難しい。それで村山談話は日本人からの好評価が得られない。
>いま、「連立」で政治が揺れる中、村山連立政権が遺したものを、どう受け止めたらよいのでしょうか。
日本人はもろ手を挙げて賛成しないといけませんね。きわめて当然の見解ですから、外国人から不満のでる筈もない。
大学などの高等教育機関で論文作りに励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。 私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。 政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。 我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。 ‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)
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