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2021年05月17日(月) 

 

 

>それは、学校が何のためにあるのかを考えれば理解することができます。 >要するに、学校とは閉鎖された日本社会で通用する「人間」を作り出すところだということです。

 

そうですね。学校は学生に処世術を習得させるところですね。   

日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。   

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。これは序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。         

政治家にも、政治哲学がない人が多い。我々の未来社会の有様を大衆に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っている。上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことにより仕事にやりがいを感じている。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。これが日本人の人生における究極の楽しみである。 

 

>日本で「社会に通用する」というのは、どこかの会社や組織のサラリーマンになれるということです。

 

そうですね。序列社会の序列人間に成れるということがわが国で通用することですね。身分を明らかにすることがわが国での信用につながることで、何処の序列の人間であるかが誇りにつながりますね。       

 

>世界的に見ても、教育とは子どもを規格化するという側面がありますが、学校は最終的に子どもを社会で通用する人間に矯正する場所です。>子どもを規格化するということです。>世界的には珍しい特徴として、日本では国民の80%以上がサラリーマンであることを考えると、日本の学校で重要な役割は「日本人がサラリーマンとして通用するように規格化すること」ということになりそうです。>しかし、日本のサラリーマンとは「上司の言うことをよく聞いて、口答えせずに言われたことを忠実に行い、不満があっても黙々と働き、集団生活を優先する」ということができる「人間」でなければいけません。>だから、日本の教育はその現状に沿って、そういった「人間」を作り出す仕組みになっていると思われます。

 

適材適所の考えですね。    

 

>「上司の言うことをよく聞く」とは、自分の意見を持たないで指示待ちの「人間」になるということです。>つまり、自分で「考えない」ことが重要になってきます。

 

そうですね。彼らは自己の意思と積極性を持つことのない社畜ですね。    

 

>そして、「口答えしない」というのも、自分の意見を殺して会社の意向を無条件で重視するという意味があります。>つまり、自分で「考えない」ことが重要です。 

 

そうですね。社畜化教育は皇民化教育に似ていますね。    

 

>また、「言われたことを忠実に行う」というのも、ロボットのようになるということであり、それは自分で「考えない」ことが求められていることになります。

 

修身教科書 (明治35年-昭和20年) よれば、木口小平 (1872-1894) は日清戦争において、ラッパ手として、死んでも口からラッパを離さなかったとされていました。

 

>さらに、「不満があっても黙々と働く」というのは奴隷のような状態も同じで、「考えないようにする」ことで達成できるものです。 

 

恣意を鍛えて意地・根性・大和魂として達成したものですね。恣意は文章 (考え) にならず、リーズン (理性・理由・適当) がない。   

 

>最後に、「集団生活を優先する」というのも、結局は自分の意見や考えよりも会社集団を尊重するということであることから、「考えない」ことで達成できるわけです。

 

そうですね。後追いの態度でやり過ごすことですね。衆愚政治の要員になることですね。  

 

 

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閲覧数639 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2021/05/17 15:50
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