>それに気づかないのは、一部だけではなく、様々な世代の日本人にも当てはまっているように思います。 >なぜなら、出会う日本人と話すたびに、多くの人が感じ取れる心の領域がかなりしぼんでしまっているからです。
そうですね。日本人は日本語を話しますからね。日本人には日本語の特性が身に付いていますね。 言語は伝達の手段としてばかりではなく、思考の手段にもなっていますね。ですから、日本語オンリーの人には日本人のメンタリティ (考え方) は避けられませんね。
>動物は、危険を感じ取れる嗅覚を持っています。
>しかし、今の日本人は膨大にあふれる物質社会の中で、心と魂がどんどん隅に追いやられていると感じます。>特に、まだ人生経験が少ない20代にもその傾向が見えていることはとても残念なことです。
日本には何でもあるが、只夢と希望だけがない。残酷な感じのするものは未来のない若者と過去のない老人でしょうね。
>多くの日本人は大きく勘違いしているように思うのですが、「覚える」というのと、「考える」ことができるというのは、別のものだということです。 >この2つは似ているようで全く違う脳を使っています。
そうですね。覚える内容は頭の外にある。考える内容は頭の中にある。
>「覚える」というのは、世の中の原理原則を覚え、歴史を覚え、仕組みなどを記憶する左脳によってインプットしています。 >しかし、「覚える」というのは単なる基本であって、本来はそこからさらに飛躍しなければならないわけです。 >それが「考える」という右脳を使ったアウトプットです。>学校が何かを覚えさせる場所であるというのは誰でも知っていますが、しかし、うまく考えさせることができないようです。
そうですね。非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。 自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。 意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の場合はこれである。非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。 わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。
>なぜなら、日本の教育は構造的に「覚えさせても、考えさせない」という教育になっているからです。
日本人は思考停止の状態にありますから、他人の内容の受け売りをするしかありませんね。その為には暗記力が必要です。
>覚えさせても考えさせないということは、そもそも「考える」という部分を軽視していることになります。
そうですね。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy. しかしながら日本人は無哲学・能天気で人生を過ごしてている。 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン) ‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク) ‘ 日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。’ (ウスビ・サコ)
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