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2021年07月20日(火) 

 

 

>368799        日本人に残された切り札は、「自考」。 >カニワ ( 26 会社員 )           21/07/19 PM09

>高度経済成長を乗り越え、貧しさがなくなった現代では、正直あまり考えずとも死の危険もなく生きて行けてしまう。  

 

そうですね。政府軍と反政府軍の長期戦も我が国内には存在しませんしね。   

 

>その代償として、笑顔・活力のないゾンビのような日本人になってしまった。>活力なく自殺が増えている実情もある。 

 

退屈男・退屈女が増えすぎましたね。いじめられたら、すぐに自殺する。        

 

>この近年で活力衰弱したのはなぜ?を考えなければならない時代になってきた。 

 

そうですね。人間は自分が好きなことをしている時が一番生き生きしていますからね。   

 

>当たり前だと思っている全てに“本当に?なぜ?”と「自考」することで突破できるのではないか?と筆者が提案する記事を紹介する。  

 

役に立ちそうな記事ですね。    

 

>ーーー引用ーーーーーーー >リンク

>◆息苦しさが日本を縮めた  >海外ニュースの担当になって8年。 >私 [岡田豊] は世界を見ながら、日本を見つめてきた。 >日本社会は、個人の個性や自由よりも組織や集団の論理を優先してきた。

 

そうですね。日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。学問の発展には関係がない。   

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。これは序列信仰の域に達しているので日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎない。そのため、個人的精神的な意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。      

 

>多様性は浸透せず、息苦しい。 >個性を押さえつける社会は、人々から笑顔と活力を奪う。>経済や社会が閉塞している原因がここにある。

 

そうですね。考えの内容は人・人により違っていますからね。多様性を認めない社会においては思考停止するしかありませんね。       

 

>東京オリンピック・パラリンピックの取材態勢は別として、日本に駐在する外国メディアのスタッフは減る傾向にある。>「日本の魅力が落ちているからだ」(アメリカ系メディア)。>日本がこのまま世界の中で縮んでいくのは、やるせない。

 

同感です。多様性がないところが珍しいというのでは、魅力は落ちてゆくばかりですね。      

 

>少子高齢化で国内市場が小さくなり、資源が限られた日本は、世界とうまく向き合わないと、今の生活水準を維持できなくなる。

 

そうですね。国際社会とうまく付き合う必要がありますね。自国の特殊・例外を売り物にするばかりでは能がない。      

 

>敗戦後、日本はアメリカの政治と経済に“支配”されてきた側面がある。

 

そうですね。日本人は政治音痴ですからね。  

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。これは日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。政治哲学にもなる。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、人間のすることであるから 'どっちもどっちだ' の結論になる。それで無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。      

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。     

 

>中国は経済の勢いを増し、覇権を強めている。 

 

中国は中原の鹿を追う伝統的な覇者の国である。覇者の物語は、中国人の愛読書となっている。覇者は周辺諸国に覇権を打ち立てようとして傍若無人のふるまいをし、多大な迷惑をかけている。これは皇帝の時代も国家主席の時代も漢民族のメンタリティが同じであるから変わらない。漢民族は、自分たちの考えを示すために漢字を作った。しかし、彼らは外国人の考えを示すための漢字は作らなかった。だから、外国人に対して自己の内容を発信はできるが、外国人からの内容を受信することは難しい。それで独断専行に陥りやすい。漢文の書物をいくら読んでも外国人の考えは出てこない。だから、中華思想を堅持し自己中心的にならざるを得ない。日夜周辺諸国を中国化することに専心してやまない。中国人が外国人の影響を受けて発想の転換 (paradigm shift) をすることは期待薄である。   

 

>人口の多い中国やアメリカと「量」で競っても勝てない。>アメリカや中国に都合よく呑み込まれないために、日本は世界にとってかけがえのない国になる必要がある。

 

そうですね。我々は頭を使う人間になる必要がありますね。   

我が国には人手不足はあっても、頭脳不足の話しは聞いたことがない。きっと頭脳不足の困難を人手を使って乗りきっているからでしょうね。これでは、他の諸国と同様にわが国は ‘かけがえのない国’ にはなれませんね。    

 

>各国から信頼される自立した「質」の高い国だ。 

 

理想は高い方が良いですね。それでは、日本はどんな国でしょうかね。

 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)    

‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)

 ‘日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。’   (ウスビ・サコ)  

 

>◆日本人の切り札は「自考(じこう)」  >日本の活路を見い出し、未来を切り拓くには、どうしたらいいのか。 >手立てはまだ残されている。 >実は単純だ。 

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

英語の勉強が流行る。学生は英語のがり勉をする。しかし、その学習効果ははかばかしくない。国際交流が流行る。学生が米国のニューヨーク州のある都市に招かれる。ホウムステイを体験して帰国した学生に尋ねてみた。 ’何という人の家に泊めてもらったの’と。すると、’彼の名前は知っているがその綴り方は分からない’ とその学生は答える。これではホストに対する宛先の書き方も礼状の出し方もままならないであろうと察した。現地の地図の見方もわからないに違いない。 

英語の 'かな書き' 表示が国際交流の邪魔をしているのであろう。これにより日本人はローマ字 (alphabet) 表記に親しみが持てなくなっている。 人類の知識の大半は英語の文献として蓄えられている。我々は英語圏以外の文明も英語を通して解している。 我々も英語を覚えて我々の文化を英語で表現すれば日本の文化を世界に広く伝えることが可能になる。この方法で我々は原書を作る国民に成れる。 

‘かな漢字’ の表記では、日本人以外に読める人はいない。だから、日本人以外の人に我々の知識を伝えるために日本語をローマ字表記にすることは最適の方法である。日本語をローマ字表記にすれば、漢字圏以外の人も直ちに日本語を読み書き話すことができる。これにより国際的な意見交換が盛んになる。そして井の中の蛙は大海を知ることになる。    

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

>私たちそれぞれが、これまでにない、新しい生き方、やり方を自分の頭で考え、創り出すことだ。

 

そうですね。日本人の思考停止に終止符を打つことが必要ですね。  

 

 

 

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閲覧数304 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2021/07/20 11:57
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