>現代ビジネス >「座して死を待つより、死中に活を」… 日本がアメリカとの開戦に踏み切った「ほんとうの理由」 >辻田真佐憲 (文筆家・近現代史研究者) によるストーリー・ >11時間・ >戦後80年を迎え、私たちは「あの戦争」とどのように向き合えば良いのでしょうか。 >日本はどこで「間違えた」のか。 >そもそもいつ始まったのか。 >掲げた理想はすべて誤りだったのか。 >「大東亜」は日本をどう見ていたかーー。 >7月17日発売『「あの戦争」は何だったのか』(講談社現代新書)著者の歴史家・辻田真佐憲さんが、右でも左でもない「戦争の全体像」を描き出すために、素朴な疑問から「あの戦争」を問い直します。 >(※本記事は、辻田真佐憲『「あの戦争」は何だったのか』の一部を抜粋・編集しています) >「過去のわれわれ」として考える >もし別の選択をしていれば、開戦は回避できたのではないか。 >あるいは、少なくともあれほど悲惨な結末にならなかったのではないか──。 >あの戦争を考えるとき、このような問いは避けて通れないものである。 >こうした思考実験はけっして無意味ではないものの、その際に注意すべきことがある。 >それは、戦前を生きたひとびとを「狂気」や「愚か」などのことばで切り捨て、現在のわれわれと無関係な存在として片付けてしまわないことだ。
そうですね。
>戦前の日本にたいする一般的な負のイメージは、「日本は神の国だ」などという精神主義に支配され、合理的な判断ができないまま、圧倒的な国力差のある米国に無謀な戦争を仕掛けたというものだろう。
'敗因について一言いはしてくれ。我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである。我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである' (昭和天皇)
>たしかに、そういった面がなかったわけではない。 >しかし、それだけであの戦争を総括するのはあまりに単純すぎる。 >歴史を学ぶ妙味は、過去のひとびとがどのような状況におかれ、いかなる選択肢のなかで生きていたのかを、自己の問題として想像し、理解しようとするところにこそある。 >つまり、あの悲惨な戦争の結末を「他者の失敗」として距離をおいて眺めるのではなく、「過去のわれわれ」が経験したものとして引き寄せ、考えること。 >それが、現在のわれわれが歴史を学ぶとき必要な姿勢なのではないだろうか。
そうですね。あれは日本人の戦争ですね。
>もちろん、それでも「さすがに米国との戦争をはじめるのは無謀だったのではないか」と感じるひとは多いにちがいない。 >作家の猪瀬直樹は、その著書『昭和16年夏の敗戦』のなかで、内閣附属の総力戦研究所が大東亜戦争の開戦直前に、「この戦争はかならず負ける」とするシミュレーション結果を近衛文麿首相や東条英機陸軍大臣らに報告していたと指摘している。 >あまりに象徴的なエピソードとしてよく知られているが、実際には日米の国力差は、当時けっして機密情報ではなかった。 >こうした報告を待つまでもなく、日本の指導層は、長期戦になれば勝ち目がないことを十分に理解していたのである。
彼らは心行くまで戦ったのですね。
>では、にもかかわらず、日本はなぜ開戦に踏み切ったのか。 >謎を解く鍵は、当時の追いつめられた状況にある。 >「涙を飲んで引く」は不可能に近かった >1941(昭和16)年8月、日本が南部仏印への進駐を行ったことを受けて、米国は日本への石油禁輸に踏み切った。 >石油供給の大半を米国に依存していた日本にとって、これはきわめて重大な結果だった。 >石油が尽きれば、陸海軍が心血を注いで整備してきた、最新鋭の軍艦・軍用機・戦車といった兵器はほとんど稼働不能となる。 >それはつまり、日本は他国から一方的に攻撃されかねない状況におかれることを意味した。 >日本はこの危機的な事態を打開すべく、これまで以上に本腰を入れて米国との外交交渉に臨むようになった。 >そのいっぽうで、交渉が決裂した場合には、戦争によって資源を確保することも現実的な選択肢として真剣に検討されるようになった。 >厄介なのは、このふたつの選択肢が「時限式」だったということだ。 >時間が経過すればするほど、石油の備蓄は減っていく。 >そうなれば、「余力があるいまのうちに戦って活路を見いだすしかない」という、「ジリ貧」論が次第に台頭してくる。 >こうして日本が国論の統一に苦しんでいたなか、同年11月、米国国務長官ハルから提示されたのが、いわゆる「ハル・ノート」だった。 >そこでは、仏印からの撤退に加え、中国からの全面撤兵までが要求されていた。 >日本がこれまで多くの犠牲を払って積み重ねてきた対外政策を全面的に放棄せよというに等しい内容だった。 >これが対米開戦への決定打となった。
対米開戦の決定打は、対米敗戦の決定打ですね。
>その後の悲劇を知る現在のわれわれは、「それでも涙を飲んで引くべきだった」といいたくなるだろう。 >だが、将来の見通しが立たないなか、限られた時間と情報のもとで、撤退という消極的な選択肢に関係各所の同意を取りつけるのは不可能に近かった。 >その結果として選ばれたのが、もうひとつの積極的な選択肢──「このまま座して死を待つより、死中に活を求めよう」だった。
ひと暴れして死ぬのが救いの道ですかね。
>日本はけっして進んで開戦を望んだわけではない。
そうですね。 われわれ日本人には意思 (will) が無い。 日本語の文法には時制 (tense) というものが無いので、未来構文の内容である意思を文にして表す事が出来ない。 だから優柔不断・意志薄弱に見える。無為無策でいながら坐して死を待つのか。
意思の無い人間には責任が無い。日本人は責任者捜しに苦労する。 たとえば【英対する開戦の詔勅】では 洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ まことにやむをえざるものあり。あにちんがこころざしならんや。 開戦はまことにやむをえないことで、私の本意ではない。 となる。 天皇の意思でなければ一体誰の本意で我が国の意思決定が為されたのでしょうか。
責任のある者は信頼される。そして尊敬される。 日本人には意思がない。意思の無い人間には責任がない。だから信頼されることはない。一旦事が起これば、責任者捜しのために騒ぎが起こる。日本残酷物語の様な騒ぎになることもある。 肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。 徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)
>むしろ、困難と知りながらも、ほかに現実的な選択肢を見いだせなかったのだ。
我が国の行政能力の問題ですね。経済封鎖に対処する道は考えられていなかったのですかね。
>日本の悲しむべき構造 >なるほど、ハル・ノートが提示された時点では、もはや引き返しにくかったのかもしれない。 >だが、それ以前に南部仏印への進駐を思いとどまっていれば、米国による石油禁輸措置を回避できたのではないか。 >そういう意見もあるだろう。 >たしかに、表面的にはそうともいえる。 >だが、もう少し前後の文脈を掘り下げてみる必要がある。 >日本は突発的な判断で南部仏印に進駐したわけではなかった。 >その背後には、第一次世界大戦以来の資源確保への強迫観念が存在していた。 >前章でも述べたように、総力戦の時代においては、石油などの物資の安定的な確保が国家の存続に直結していた。 >勢力圏が狭く、その自給ができていなかった日本にとって、東南アジアの資源地帯は戦略的にどうしても押さえておきたい場所だった。 >そのため、日本は南方への進出の機会を長らくうかがっていた。 >だからこそ、1939(昭和14)年9月に第二次世界大戦が起きるや、1940(昭和15)年9月には北部仏印に進駐するとともに日独伊三国同盟を結び、1941年4月に日ソ中立条約が結ばれて北の脅威が去るや、同年7月、さらに南部仏印にも兵を進めたのである。 >仮に、あのタイミングで南部仏印に進駐しなかったとしても、別の機会に南方へ進出して、結果的に、米国と衝突していた可能性は大いに考えられる。
米国との衝突避ける政策の政治家はいなかったのですかね。
>これは日本の悲しむべき構造的な脆弱さだった。
米国との Win-win の関係が必要ですね。
>日本は、石油をはじめとする資源を米英に依存しながら、その米英との将来的な対決に備えようとしていたからだ。
そうですね。荒唐無稽の構想ですね。この構想を批判する政治家はいなかったのですかね。
>当然ながら、米英の立場からすれば、そうした日本の行動を看過できるはずもなかった。
日本は自分のアキレス腱を知らない。経済封鎖の予防もしない。ズボラですね。北朝鮮の金正恩ならそれをよく知っていますね。 (略)
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