>日刊スポーツ >藤岡弘、政治家の靖国神社参拝について持論「なんらやましいことはない」 >日刊スポーツ新聞社によるストーリー・ >12時間 >藤岡弘、(79)が18日、X(旧ツイッター)を更新。 >毎年、終戦の日の15日に議論になる、政治家の靖国神社参拝について持論を展開した。 >藤岡は「靖国問題。 >首相の参拝に賛成の人、反対の人。 >それぞれの意見があることは大いに結構である。 >しかし、私はこの国のために命を捧げ、死んでいった人の魂に手を合わせることに対し、なんらやましいことはないと思っている。
そうですね。何らやましいことがない人ばかりがいることがこの国の問題ですね。 戦争中、沢山の虐殺があった。だのにわが国には何らやましいことのない人ばかりがいた。それがこの国の問題ですね。
>合掌、藤岡弘、」とつづった。
日本人は天真爛漫とした子供の顔つきをしている。悪びれた大人の顔つきがない。
高橋史朗氏 (1950- )は米国の戦後の日本占領政策について、米国が「日本が二度と立ち上がれないような政策」を行ったとしており、それがその後の日本人の「自虐意識」を育てることになったと主張している。 意思がなければどうなるか。受動があって能動がない。だから、被害者意識があって加害者意識がない。罪の意識もない。これはアニマルも同じである。罪の意識のある人たちにとって、罪を知らない人たちの立ち上がりは恐ろしい。 ‘罪悪感を国民に植え付けるプログラム’ (WGIP: War Guilt Information Program) とは、大東亜戦争後の昭和20(1945)年からサンフランシスコ講和条約発効によって日本が主権回復を果たした昭和27年までの7年間の占領期間に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が占領政策として行った、戦争への罪悪感を日本人の心に植えつける宣伝計画ですが見事に失敗しました。カエルの面に水でした。わが国からは戦争犯罪人は一人も出していません。意思の無い人間に罪の存在を理解させるのは難しいからです。従ってわが国の全ての宗教は罪と距離をおいたところに存在します。罪の意識に苛まれる病める魂の持ち主を救済する必要がないからです。日本人には贖罪の必要がないのです。
日本人は思考を停止しているから、自分自身の意見を明らかにできない。わが国のマスコミの編集長でも例外ではない。だからいくら外部の情報を流しても、それが社会の木鐸の役割を果すことはない。「それでどうした、それがどうした」の問いに答えが出せないのである。我々日本人は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だから個人の価値が低い。[木鐸=ぼくたく:世人を教え導く人] 英米流の高等教育機関において自己の個人的な見解を明らかにすれば学位 (博士号など) が得られる。ぜひやるべき勉強です。 イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。 何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
|