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2025年08月23日(土) 

 

>プレジデントオンライン   >なぜ日本は米国に対して「無謀な戦争」を挑んだのか … 後に首相になる「政界のプリンス」が見抜いていた必然の帰結   >辻田真佐憲によるストーリー・   >4時間・   

>太平洋戦争が起きる前に、日本は米国や英国と協力的な関係を築くことは可能だったのか。   

>近現代史研究者の辻田真佐憲さんは「今の視点で見れば、可能だったかのように思える。   

>だが、当時の日本が抱いていた英米への不満を考えるに、協調外交は容易ではなかった」という――。   

>(第1回)   

>※本稿は、辻田真佐憲『「あの戦争」は何だったのか』(講談社現代新書)の一部を再編集したものです。   

>日米が連携していたかもしれない“幻の満州開発計画”   

>「もし日本が米英との関係を友好的に保っていれば、資源も確保でき、あのような戦争にいたらずに済んだのではないか」という見方がある。   

>これは、外交評論家や国際政治学者と呼ばれるものたちのあいだでしばしば唱えられる歴史の“イフ”だ。   

>桂・ハリマン協定の破棄はそのターニングポイントのひとつとしてよくあげられる。   

>日露戦争後の1905(明治38)年、日米が共同で満洲を開発するという計画が持ち上がり、桂太郎首相と米国の鉄道王ハリマンとのあいだで予備覚書が交わされた。   

>戦後の財政難に直面していた日本が、米国資本の導入によって満洲経営の安定を図ろうとしたものだった。   

>しかし、小村寿太郎外相の強い反対により、この協定は最終的に破棄された。    

>もしこの時点で日米協力の枠組みが確立されていれば、第一次世界大戦後、中国のナショナリズムの高まりによって日本の特殊権益が脅かされた際にも、米国との連携を通じて安定的に対処できたのではないか。   

>あるいは、満洲事変のような局面にいたっても、日米の連携が可能だったのではないか。   

>こうした見解が一定の説得力を持って語られているのである。   

 

日本人は外国人との協調性が少ないですね。日本人は序列人間で、自己の序列 (国家) に対する帰属意識が強いですからね。   

 

>避けられなかった日英同盟の失効    

>同様の議論は、日英同盟にもあてはまる。   

>1902(明治35)年に締結されたこの同盟は、日露戦争後も維持されていた。   

>だが、第一次世界大戦後に開かれたワシントン会議を経て、1923(大正12)年に正式に失効した。   

>会議の場で、英国は従来の二国間同盟を拡張し、日英米の新たな枠組みを模索していたが、最終的にはフランスを加えた四カ国条約という多国間の協定に落ち着いた。   

>それは、従来の同盟関係とは異なり、緩やかな協調体制にすぎなかった。    

>もしこの外交交渉において、日英同盟がなんらかのかたちで継続されていたならば、日本は英国との対立を避けつつ、より安定した立場で国際社会にとどまることができたのではないか。   

>そうした見立ても一部で行われているのである。   

>こうした議論の根底にあるのは、“勝ち組”米英との協調関係を保っていれば、日本は“負け組”独伊との連携に走ることなく、最終的には戦勝国として“勝ち馬に乗れた”という発想だろう。    

>しかし、これらはあくまで現在の視点、とりわけ戦後の日米関係を前提に、遡及的に導き出された推論にすぎないのではないか。   

 

‘寄らば大樹の陰’ではなかったのですね。   

 

>当時の状況では米英との協調は困難   

>桂・ハリマン協定については、いかに日米関係が重要だといっても、「日本人が多くの犠牲を払って獲得した満洲の権益を、なぜ他国と共有しなければならないのか」という国内世論の反発が強かったことは想像にかたくない。   

>「それでも日米の協力には意味がある」とする主張は、その後の歴史の帰結を知っているから成り立つものだろう。    

>また日露戦争後、日米関係はむしろ悪化する方向に向かっていた。   

>米国では日系移民が増加し、それにたいする差別的な扱いが両国間に不信を生むこととなった。   

>そして1924(大正13)年には排日移民法が成立し、日本ではさらに反米感情が高まった。   

>そうした状況を踏まえれば、たとえ桂・ハリマン協定が実現していたとしても、友好関係が長期にわたって維持されていたかどうかはわからない。   

>日英同盟の失効についても、第一次世界大戦後の国際協調的な外交の潮流のなかで生じたものだった。   

>当時は多国間の秩序構築が志向されており、ヨーロッパではヴェルサイユ条約などを基盤としたヴェルサイユ体制が築かれ、アジア・太平洋地域ではワシントン会議を契機とするワシントン体制が築かれることになった。   

>こうした流れに逆らって、日英のみで二国間同盟を維持し続けるという選択肢が現実的に存在していたとは考えにくい。   

>これもまた、あとづけの理屈にすぎない。   

>近衛文麿が糾弾した英米の偽善   

>そもそも日本は、第一次世界大戦後には五大国の一角を占める“勝ち組”だった。   

>にもかかわらず、そこから離脱を余儀なくされる事情があったことを忘れてはならない。   

>その背景として、米英にたいする根深い不信感と、日本の人種的な孤立感は無視できない。   

 

我が国は地球上にあって、しかも世界に属していない。   

 

>のちに首相となり、日中戦争の開戦に臨んだ近衛文麿の論考は、その象徴的な一例である。   

>近衛文麿は五摂家の筆頭である近衛家の長男として生まれ、父の死により若くして公爵を襲い、やがて日本を背負う存在として注目を集めていた若き俊英だった。   

>かれは、ヴェルサイユ条約締結に際して全権を務めた西園寺公望に随行し、パリ講和会議に日本代表団の一員として参加するという特別な機会を得た。    

>その出発直前、近衛が雑誌『日本及日本人』(1918年12月15日号)に寄稿したのが、「英米本位の平和主義を排す」と題する有名な論文である。   

>27歳にして発表したこのデビュー作で、近衛は国際秩序を主導していた英米の掲げる人道主義や平和主義が、いかに偽善的であるかを痛烈に批判した。   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


閲覧数36 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2025/08/23 00:55
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