>キャリコネニュース >母は東大、姉は京大… 家族が優秀すぎる専門学生の悩み「学歴が重視される事に気づき…」に寄せられた賛否の声 >キャリコネニュースの意見・ >19時間・ >自分の家族や親戚の経歴が輝かしいと、誇らしい気持ちになる一方、かえってプレッシャーを感じてしまうこともあるようだ。 >お悩み解決掲示板に7月下旬、「父は立命館、母は東大、姉は京大 を卒業しているのですが、私は、違います」という、痛切な書き出しのスレッドが立ち注目を集めた。 >スレ主は現在、看護専門学校の2年生。 >高校までの成績は悪くなかったものの、「人を大切にする」という自分の身上から看護師を目指したという。 >(以下引用) >「ですが最近、現実はそんなもの意味がなく、学歴が重視される事に気づき、高校の時、努力し家族と対等になれる大学を目指さなかった事をとても悔やんでいます」
それは序列社会に生きる序列人間の苦しみですね。 外国はため口社会ですからね。[ため口: 相手と対等の立場でものをいうこと] 差別はあっても、一対一の差別ではない。 我が国の国民も政治家も差別解消に力を入れるべきですね。 この国民病は一朝一夕には解消しませんね。我々のたゆまぬ努力が必要です。
> (以上引用) >こう意気消沈し、このまま夢を追いかけるべきか、「家族に恥じることのないよう、今からでも大学を目指すのが良いのでしょうか」と問いかけている。(文:篠原みつき) >「社会に出たら学歴はあまり意味ありません」 と応援の声 >ちなみに、スレ主の家族は学歴至上主義という訳ではないらしく、「好きな事をすれば良い」と現在の進路を心から応援してくれているようだ。 >しかしスレ主は、「看護師は、立派な仕事です」と理解しつつも、「ただ、家族に比べ私は何も持っていません」と、コンプレックスを募らせている。 >この切実な悩みに、コメント欄には応援や現実的なアドバイスなど、様々な角度からのコメントが入った。 >まず目立ったのは、「学歴なんて関係ない」という励ましの声だ。 >(以下引用) >「親族がどこの大学だとか関係ないでしょ?好きな道を歩ませて貰えた事が幸せだよ」 >「手に職って、やっぱりいつの時代でも強いよ」 >「社会に出たら学歴はあまり意味ありません。(中略)夢を持っているだけで素晴らしいです。応援してます」 >(以上引用) >専門職である看護師の強みを挙げ、スレ主のそもそもの選択を肯定する意見が多く見られた。 >「同じ仕事して給料違う」というリアルな声も >一方で、より現実的な視点からの指摘も少なくない。 >(以下引用) >「どうせなら大卒の看護師目指せばよかったのに」 >「看護師も結局学歴です。 >なるなら看護大学の方が良かったと思います。 >同じ仕事して給料違うんですよ。 >馬鹿みたいです」 >(以上引用) >特に、現役看護師だという人からのコメントは生々しい。 >給与や待遇面で大卒との差が現実に存在することを指摘し、「もし、ご自身が結婚願望や子供を持つ事を考えているなら尚更保健師の資格の方がいいです」と、将来を見据えた具体的なアドバイスを送っている。 >一方で、「大学行き直すなんて金と時間の無駄でしょう」という指摘もあった。 >(以下引用) >「学歴によって待遇に差があるとしても、これから4年間学費払うのと給料貰うんじゃ倍違うよ」 >(以上引用) >確かに今から専門学校を辞めて大学に入り直すのは費用も時間もかかる。 >スレ主が最も悩める点もそこだろう。 >しかし、現実的には看護専門学校を修了してから看護学部のある大学に3年生から編入することが可能だ。 >大学では、専門学校では取得できない保健師や助産師になるための教育課程も履修することができる。 >スレ主がそこまで大卒にコンプレックスを持ってしまうようなら、大学への編入は後悔のない選択肢の一つになるのではないだろうか。 >いずれにしてもスレ主は、看護師を目指す気持ちは変わらず、「中途半端な人生を歩みたくないので、もう一度自分できちんと考えます」と様々なアドバイスに感謝していた。
日本人は思考を停止しているから、自分自身の意見を明らかにできない。わが国のマスコミの編集長でも例外ではない。だからいくら外部の情報を流しても、それが社会の木鐸の役割を果すことはない。「それでどうした、それがどうした」の問いに答えが出せないのである。我々日本人は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だから個人の価値が低い。[木鐸=ぼくたく:世人を教え導く人] 英米流の高等教育機関において自己の個人的な見解を明らかにすれば学位 (博士号など) が得られる。ぜひやるべき勉強です。 イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。 何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
日本語の文法には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが日本社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。人間としての順位の比較は没個性的でなくてはならない。受験戦争は他人の受け売りを使った戦になっている。だから、我が国の序列競争の激しさは個性の育成の足かせになり、自己実現の妨げになっている。
日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅苦しい日常生活を送っている。ため口を禁じられているので、相手と対等な立場でものをいう事ができない。人間が真に平等であるという実感を体験したことがない。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。
日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬と序列作法には浅薄さが付きまとう。
日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在をウチソト意識として確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる個人的な義務) を果たすことに懸命になる。そして、かたい契りの義兄弟になる者もいる。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。個性に焦点を絞ることのない人間比較の叙勲は国体 (序列国家) に関する国民の意識を高めている。
|