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2025年09月09日(火) 

 

 

>日刊スポーツ   >高岡蒼佑、石破茂首相の辞任表明に「一生騙されている国民が一番どうかと思うよ」   >日刊スポーツ新聞社によるストーリー   >16時間   

>俳優の高岡蒼佑(43)が8日までにX(旧ツイッター)を更新。   

>自民党の石破茂首相が辞任する意向を表明したことを受けて言及した。   

>高岡は「石破さん、まだおって欲しかったよ。   

>もっともっと粘ってくれよ」と書き出し、「もっと自民の汚さを拡めてくれなきゃ。   

>あなたを降ろそうとする奴らの結局言いなりかよ。   

>引きずり降ろそうとした奴らが、実権握ってるわけじゃない。   

>もっとあがけよ。   

 

そうですね。上がったり下りたりするのが我が国の政治家の役割のようですからね。    

 

>何がしたかったんだよ」との思いをつづった。   

>続けて「で、次の頭が(仮)が無条件で支持率上げるんだろ? なんだよこの茶番」と吐露。   

 

そうですね。無哲学・能天気の効果ですね。   

 

>「党内でわちゃわちゃして、救世主のように報道させて、またこれに騙されるんだろ。   

 

そうですね。日本人にはそれしかない。    

 

>政治家がどうのじゃない。   

>政治家はクソなんだよ。   

 

そうですね。政治哲学の無い政治家には価値がありませんね。   

 

>そうじゃなくて一生騙されてる国民が一番どうかと思うよ」とチクリとさした。   

 

そうですね。   

大学などの高等教育機関で論文作りに励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。

私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。       

政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)    

 

>その後の投稿では「岸田が辞めてくれたやったー 石破やめてくれたやったー これで日本は良くなる。   

 

そうですね。猿がラッキョウの皮をむく様なものですね。お目当ての実はない。猿知恵か。   

 

>何十年これやってんの?バカなの?」とバッサリ。   

 

日本人にはどうしたらよいのかわかりませんね。   

 

>「そんな短絡的な考えだから日本は地に落ちたままなんでしょうね。   

 

そうですね。日本人は無哲学・能天気ですからね。   

 

>テレビ捨てたら?」と切り捨てた。   

 

テレビに罪を着せても始まりませんね。   

日本人は思考を停止しているから、自分自身の意見を明らかにできない。わが国のマスコミの編集長でも例外ではない。だからいくら外部の情報を流しても、それが社会の木鐸の役割を果すことはない。「それでどうした、それがどうした」の問いに答えが出せないのである。我々日本人は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だから個人の価値が低い。[木鐸=ぼくたく:世人を教え導く人]        

英米流の高等教育機関において自己の個人的な見解を論文にて明らかにすれば学位 (博士号など) が得られる。ぜひやるべき勉強です。   

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)    

 

現実の内容は頭の外にある。だから、見ることができる。見れば理解できる。Seeing is believing.

非現実の内容は脳裏にある。見ることができない。それは考えの内容だからである。考えを理解するためには文を文法に従って忠実に解釈する必要がある。  

非現実の内容は三つの世界に分かれている。過去・現在・未来とか前世・現世・来世とかである。それぞれの世界は文法の時制により異なる時制の文になっている。だから、内容が混じりあって混乱することが無い。これは考えの世界であって、考えは印欧語族の言葉の中にある。

日本語文法には時制がないので、考えの内容は日本人には作れない。だから、日本人は思考を停止しているといえる。考えの内容は、哲学と呼ばれている。考えから出て来る悩みは加害者意識という強烈な苦しみを与えることがある。だから病める魂の持ち主の為に救済を目的とした活動が宗教である。贖罪とか涅槃とか呼ばれるものが人を救う。だからキリスト教・仏教は大きな宗教になった。 

宗教もそれ以外の考えも哲学である。日本語文法に時制というものが無く、思考を停止している日本人は宗教 (スコラ哲学・インド哲学) もそれ以外の哲学も消化できない。哲学は修道院で発達し近代的な学問となった。   

日本の文化には形があって内容 (哲学) が無い。 形式があって理由 (考え) がない。 儀式があって教義がない。この流儀に従って生活していると、生まれた時には宮参り、結婚式にはキリスト教会、死んだときには葬式仏教の厄介になる。良い気分・雰囲気を求めてやまない日本人の生活になる。理由を考えたりしなければ、何らおかしなこともない。      

リーズン (理性・理由・適当) があれば、非現実の内容は哲学になる。英米流の高等教育の成果が出る。それがない発言は、意味も無い空想・妄想になる。無哲学・能天気のわが国は、お陰様で漫画・アニメの大国 (サブカルチャーの国) になりました。    

アドビシステムズ、マイクロソフト、グーグルというアメリカの3社のCEOはインド人だそうである。アメリカ人はインド人の頭の良さを認めることにやぶさかではないですね。その評価の力はアメリカの国力になっている。   

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


閲覧数55 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2025/09/09 04:15
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