>日刊スポーツ >自民党総裁選に「自民党最後の総裁選になる可能性もあるのではないか?」と私見 >日刊スポーツ新聞社によるストーリー・ >20時間 >立憲民主党の小沢一郎衆院議員が9日までにX(旧ツイッター)を更新。 >石破茂首相の辞任表明を受け後任を選出する自民党の総裁選について、私見をつづった。 >小沢氏は、同総裁選をめぐり「ポスト石破争い」の候補者などについて報じた一部メディアの記事を添付。 >「恒例のくだらない茶番劇が始まる。
そうですね。我々は茶番劇に見とれていてはいけませんね。
>大手メディアも加担することだろう」とバッサリ斬った。
あなたは日本人は暢気なものですね。まるで人ごとのよう。自国の尻に火がついているのに。それでも我が国の国会議員であるのか。
>そして「スローガンは『自民党は今度こそ変わる』だろうか?
まるで人ごとですね。自分が変わる話はないのですか。自民党が変わらなくても自分自身が変われば人はついてくる。この国は変わる。
>さすがにもう通じないのではないか?
それでどうした。他力本願・神頼みではどうにもならない。
>石破氏で駄目だったのだから、自民党は更に悪くなるだけだろう」とした上で、「自民党最後の総裁選になる可能性もあるのではないか?」との見立てを示した。
あくまでもあなたは暢気ですね。 為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり 日本人には自分自身がない。ただ地位だけがある。だからどうにもならない。
>この投稿に対し「テレビ見てるだけでウンザリしてきます」
無哲学・能天気の日本人は変わりませんね。うんざり民族ですね。
>「変らないと思います」
日本人の不変は日本語文法による縛りがあるからでしょうね。
>「これから醜い私利私欲の為だけの国民総無視の総裁選…」
無哲学・能天気の日本人には私利私欲しか残っていない。
>「あぁ、この人ならって思える人がいないです」などとさまざまな反響の声が寄せられている。
無哲学・能天気の政治家たちは取るべき人がいない。
大学などの高等教育機関で論文作りに励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。 私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。 政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。 我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。 ‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)
子供には現実 (事実) ばかりがあって非現実(哲学・考え) がない。 英米流の高等教育は子供に哲学を獲得するための教育である。 英米流の高等教育は子供を大人にする為の教育である。 子供が思春期になって、言語能力が飛躍的に増大するのを待って高等教育が行われる。
英語の文法には時制 (tense) というものがあって独立した非現実の三世界を表現することができる。 未来時制の文を使えば自己の意思を表すこともできるようになる。 意思を表すと加害者意識も経験することになる。 それが高じて罪の意識も理解できるようになる。罪の告白も可能になる。 深い反省にも陥ることもあるので原因の究明が行われる。 事故の原因究明がうやむやにはならない。
魂の救済を必要とする人も出て来る。 贖罪のための宗教 (キリスト教) も重要になる。 こうしたことで浅薄な人間が思慮深い人間に変身する。 だからどこの国でも高等教育に力を入れることになる。
哲学は非現実 (考え) の内容であるから、思考を停止している日本人には縁がない。 日本語は現実の内容だけを話す言語である。 日本式の判断だと見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。 だから現実の言葉 (日本語) を話す人が非現実を語る学習をすると常に失敗する。 嘘ばかりついていては学習に力が入らない。だからわが国は英米流の高等教育の導入に失敗した。何処の国も日本に我が子の高等教育の成果を期待する者はいない。
今の地球はアングロ・サクソンの支配体制にある。哲学が相手を引き付けて人々の尊敬を得る。アフリカ系米国人はアメリカの大統領になった。インド系英国人は英国の首相になっていた。これらは高等教育の賜物である。インド人は印欧語族であるからアングロ・サクソンと相性が良い。
当の日本人の若者はいまなお序列競争にうつつを抜かしていて、教育内容の吟味などする余地はない。 難関出身者が序列社会で優位に立つ話ばかりを気にしている。それで国のかじ取りが危うくなっている。
日本人は思考を停止しているから、自分自身の意見を明らかにできない。わが国のマスコミの編集長でも例外ではない。だからいくら外部の情報を流しても、それが社会の木鐸の役割を果すことはない。「それでどうした、それがどうした」の問いに答えが出せないのである。我々日本人は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だから個人の価値が低い。[木鐸=ぼくたく:世人を教え導く人] 英米流の高等教育機関において自己の個人的な見解を論文にて明らかにすれば学位 (博士号など) が得られる。ぜひやるべき勉強です。 イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。 何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
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