>アサ芸プラス >【ドアホ総裁選】野党のポチ「小泉進次郎内閣」発足なら「落ち目同士の維新と連立」で共倒れの「お先真っ暗」 >アサ芸プラスの意見・ >5時間・ >下馬評では目下、小泉進次郎氏がリードを広げつつあると伝えられているのは、10月4日に投開票が行われる自民党総裁選だ。 >5人の候補者のいずれもが1回目の投票で過半数を獲得できる見込みはなく、獲得票数上位の2候補による決選投票となる公算が大きい。
そうですね。
>テレビのワイドショーは連日、総裁選レースの行方を取り上げているが、盛り上がっているのは当事者だけ。 >まさに前代未聞のドッチラケ総裁選と化している。
残念なことですね。
>それもそのはずである。 >各候補者は「解党的出直し」を口にしながら、国民がノーを突き付けた裏金疑惑をはじめとして、具体的かつ抜本的な党改革には口をつぐんだまま。
候補者にはその意思がないのでしょうね。
>返す刀で自民党の分断を避けるべく、仲良しムードで論戦を封印した挙げ句、口を衝いて出てくるのは「野党への秋波」丸出しの、ご機嫌取り発言ばかりなのだ。
それは ‘和を以て貴しとなす’ ですか。
>筆者と親しい自民党の大物議員は、呆れ顔で次のように斬り捨てている。 >「衆院も参院も少数与党に転落したからといって、候補者がこぞって野党におもねるようでは、『野党のポチ』と言われても仕方がないだろう。 >こんな体たらくを続けていれば、ますます野党に足元を見られるだけだ。 >本当に解党的出直しを断行し、国民の強い信任を得て、両院での多数を回復する。 >今回の候補者には、このような気概が全く感じられない」
意思のある所に方法がある。Where there is a will, there is a way. 日本人には意思がない。だから方法もない。
>しかも、である。 >新総裁が国会で次期総理に指名され、一部野党との連立に成功したとしても、見通しは極めて暗いのだ。
そうですね。皆が指導者一個人の政治哲学に力を結集していないからですね。
>全国紙政治部ベテラン記者が鋭く指摘する。 >「最も可能性が高いのは『小泉進次郎内閣』が発足し、日本維新の会を取り込んで、連立を組むというシナリオです。 >これは進次郎氏以外の候補者が新総理・総裁となった場合も有力です。 >しかし、自民が落ち目なら維新も落ち目というのが、偽らざる現実。
それは指導者個人の哲学に人気が集中していないからですね。個人主義のない政治ですね。
>落ち目同士が野合しても『抱き合い心中』で共倒れというのが関の山でしょう」
日本人には意思がない。意思のない人間には責任がない。責任のない人間には信用がない。民、信無くば立たず。(政治というものは 民 (民衆) の信頼無くして成り立つものではない。) [論語・顔淵]
>看板だけを掛け替えて、政権維持に血道を上げる。
軽薄そのものですね。
>国民の目は節穴ではない。 >この総裁選は「自民党の終わりの始まり」を刻む墓標となるだろう。
日本人は民主政治の落第生ですね。
>(筒井猛)
日本人は思考を停止しているから、自分自身の意見を明らかにできない。わが国のマスコミの編集長でも例外ではない。だからいくら外部の情報を流しても、それが社会の木鐸の役割を果すことはない。「それでどうした、それがどうした」の問いに答えが出せないのである。我々日本人は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だから個人の価値が低い。[木鐸=ぼくたく:世人を教え導く人] 頭を使うということは暗記力を示すことではなく自己の見解を明らかにすることである。英米流の高等教育機関において自己の個人的な見解を論文にて明らかにすれば学位 (博士号など) が得られる。ぜひやるべき勉強です。 イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。 何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
大学などの高等教育機関で論文作りに励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。 私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。 政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。 我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。 ‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)
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