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2014年09月28日(日) 







‘世の中は、、、、’ の内容は、大体、誰もが同じになる。実況放送・現状報告の内容である。

同じ意見の人は正真正銘の'国民' であるとみなされている。このような国民から成り立つ国が実は日本であると考えているに違いない。

だが、他と異なる意見の持ち主は '非国民' と呼ばれる危険がある。だから、国民になるために、国民学校に入学してご唱和の練習が必要になる。

与えられた内容の暗記ばかりで、創造力の育成はない。我が国の教育法に戦前・戦後の変わりはない。試験地獄で鍛えられた、切って揃えられたような一様な知的水準を示す。個人主義がない。



'それは、理屈だ' は、ほめ言葉にならない場合が多い。‘相手は、その考えを受け入れない'ということを、遠まわしにいう場合が多い。日本語脳裏に筋論を保存する余地はない。だから、個人・個人の理屈の違いには、興味を示さない。現実の内容には個人の違いを超えた一致がある。非現実 (考え) の内容には前提となる一致がない。矛盾のない内容は、個人的に違っていても、それぞれ個人の意見であるはずだが、日本語のような時制のない言語を使用すると、個人の違いを認めることは難しい。現実の内容でないものは嘘になる。



一方、出鱈目には、'だって、そう、思ったのだから、しかたがないではないか' が言い訳となる。矛盾の存在はいっこう気にならない。この世に存在するかしないかが主張の決め手になっていて、矛盾の有無が‘考え’の成否として認められていない。だから、まともな議論はできない。かくして、筋の通らない 'やり取り' に 時間を潰す日常になる。頭でっかちになった曲学阿世の輩が、社会で幅を利かすことになる。民度 (文化程度) の低さを表している。



イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)



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閲覧数951 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2014/09/28 10:35
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