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2015年09月16日(水) 









・> 先に私は、自由とか人権とかの理念が現在ではほとんど抵抗なしに日本人に受け入れられていると言った。この「抵抗なしに」が、今の私にはかえって恐い。日本人はとかく自分より高い文明をもっていると思われる外国のものを「抵抗なしに」受容する。



有難いお題目のようなものか。日本人は、向上心があるので上のものを求めている。

自由とは、意思の自由のことでしょう。日本人には意思が無い。意思は未来時制のセンテンスで、日本語には未来時制が無い。だから、日本人には意思が無い。無意志であることは自由・不自由の次元を超えている。不自由を常と思えば不足なしか。



・> それは日本人の長所であると同時に短所でもあった。抵抗なしに受け入れたものには、深い理解も執念もない。したがって、また抵抗なしに手ばなすことも可能であろう。



日本人は、無哲学・能天気である。日本語には時制が無いので、非現実の内容をセンテンスにすることができない。センテンスが重要である。センテンスが無ければ、意味もなく、矛盾もない。非現実の内容は、頭の中にある考えである。あえて日本人が非現実を口にするならば、それはこの世の真っ赤な嘘になる。



・> 私はこの理念の重要性を認識し、評価しているつもりである。しかし、それであればこそ、日本人の立場から、深く検討したり、吟味したりしながら、つまりできるだけ「抵抗」しながら、本当に真剣に受け入れるべきではないかと思う。



同感です。考えもなく言動する日本人は浅はかですね。無哲学・能天気では真剣になれない。哲学は空想・妄想になる。

真面目になるには、言語に時制が必要である。英語を学んで、我々は考えを深くしよう。







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閲覧数574 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2015/09/16 05:59
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