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2015年11月08日(日) 

 


インド人の哲学には、前世・現世・来世の三世界がある。これらの世界の内容は、ヒンズー語の文法である時制 (過去時制・現在時制・未来時制) に基づいて組み立てられている。我々日本人は仏教徒であるが、三世界の内容については詳しくはないし、語ることも無い。日本語には時制が無いからである。
時制のある言語を使うと、考えが深くなる。つまり、考えの内容が豊富になるのである。英語にも時制があるので、インド人とは違った種類の三世界がある。

世界観対世界観の比較は、非現実の次元の内容の比較である。
各人の考えにより世界観の内容は違っている。だから、過去の世界の内容や未来の世界の内容などを知ることに興味がわく。その内容に矛盾があればそれを知らせ、無ければ、それは一個人の意見として尊重される。お互いの意見を尊重するためには、個人主義が必要である。各人に哲学は必要である。
日本人の考え方は、‘世の中は、、、、’ である。この比較は、現実の内容の比較である。現実の内容は、異口同音でなくてはならない。そうでなければ、事実誤認があることになり、事実関係調べになる。
我が国は、異口同音の発言は認められているが、個人的な発想が高く評価されることはない。
矛盾を含まない考えは、その内容が現実・非現実にかかわらず、正しい考えです。この認識が日本人には難しい。だから、哲学は日本人にとって難解な学問になっています。個人の内容が違うのは個人差で、その正しい考えは、その個人固有の所有物と考えられます。

世界がいくつもあれば、どの世界が良いかと考えることもできる。非現実の世界の内容は、人・人によって違う。だから、話しあう甲斐がある。向かう世界を大同として大切にして、小異に関する事柄をお互いに譲り合えば、未来社会の建設協力が成り立つ。
だが、無哲学・能天気であっては、相手の構想に見合う内容が提示できない。自分の話は自分の話、相手の話は相手の話、といった区別ができない。だから、ああいえは、こういうという形式で応答する。相手の内容に消去法を駆使して到達する結果は不毛な議論ということになる。自分に世界観が無くても議論する資格があると思い込むところに大きな間違いがある。考えのない人の議論は、聞いても仕方がない。

嘘も方便という言葉があるが、我が国では大同は方便として使われている。大同という言葉はあるが、もともと人々はそのような非現実の内容を持ち合わせていなかったのかもしれない。だから、他人の話に対して常に嘲笑的である。人々は真面目になれない。漫画大国になれる。
無哲学・能天気の状態では、’あるべき姿’ の内容が脳裏に宿らない。大同という言葉はあるが、大同団結を望んでいない。常に離合集散して悔いがない。
このような習性を持つ民族を大同団結させる方法は権威主義である。序列の権威を振りかざして人々を枠内に閉じ込める。不自由を常と思えば不足なし。
特亜三国 (日本・中国・韓国) の人々は一つの世界に行き着くことを切望していない。大同が無いので小異にこだわるしかなく、この精神状態が北東アジアの不安定要因を作りだしている。

日本語には、階称 (言葉遣い) がある。自分を基準にして、’上とみるか、下とみるか’ の判断により、同じ意味を区別して表現する。この語法は文法ではないけれども、序列社会の生活には欠かせないものになっている。だから、上下観念は日本人にとって強迫観念になっている。
‘上とみるか、下とみるか’ の判断により、人間が序列を作る。かくして、序列社会が出来上がると、序列の枠内においては、下の者ほど割が悪い待遇を受ける。辱めを受ける。だから下積みの状態を解消しようとして向上心がわく。出世欲が出る。国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。とはいえ、世界に強い影響力を持つ指導者を目指すというわけでもない。個人の能力ではなく、身分獲得を狙っているのであろう。

各国の過去には、それぞれの功績があり、汚点もある。所詮、人間のすることであるから、神の領域には達することはない。歴史認識の問題で、自己慶賀と自虐の間を行ったり来たりしている。その間に歴史修正という間違いを起こすかに見える。
各国の言語には長所もあり、短所もあるが、長所・短所を聞いて一喜一憂していては忙しくなるばかりである。
序列思考にとらわれていると碌なことは無い。感情に左右されていては、理性的な判断もおろそかになる。’下と見られた’ と直観して、激しい怒りを示すのは、’ひがみ’ というものである。ひがむ者は敬遠される。話ができない。ひがみが、話の腰を折るからである。

日本語思考の効果は素晴らしい。日本語思考により細工物の仕上がりが良くなる。我が国の製品は、世界の隅々にまで無言の説得力を持っている。日本人の今日があるのも、ひとえに日本語のおかげである。
我々は、さらに英語思考を加えれば、精神面でも世界の上に立つことができる。だから、我々日本人は、日本語と英語の両方を学んだほうが良い。

ブドウは放置しても葡萄酒になるという。ブドウに付着している酵母菌が糖分をアルコールに変えるからである。ところが、米は放置しても、日本酒にはならない。コウジカビの胞子を使って酵母菌が働けるように下ごしらえをしなければならない。
これと似たようなもので、英米人はそのまま成長しても英米流の高等教育を受けられるようになる。だから、がり勉は必要ない。だが、日本語脳の持ち主は、そうはならない。教育に余分な手を加えなくてはならない。かくして、その教育法が確立した暁には、世界一の名酒のような素晴らしい個人が輩出することになるにちがいない。






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閲覧数564 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2015/11/08 20:45
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