今回で伊村達児さんの物語りは最終回です。 いまはブラック企業の代表のように責められていますが、わたしが知る「電通」の社員さんたちは、みんな明るく生き生きと仕事をされる才能豊かな人たちばかりです。 そんな人生を180度以上転換して、ふるさとの沖永良部で農業をするきっかけはなんだったのか。それを決断させ実行させた思いとは。そして伊村農園が大切にしてきた志しに、ぜひ触れてみて下さい。 伊村農園の無農薬完全有機栽培による「インカのめざめ」は、下記のサイトで近日中(2/26から)販売開始(取り寄せは4月上旬)されます。 https://hyocom.jp/shop/items/detail/178 ![]() ●大震災で芽生えたモノづくりへのおもい 電通を辞めて農業の道に進んだ理由はいろいろあった。会社の管理職に魅力を感じなかったことや、まだ元気だが80歳を目前にした両親の元へ、兄弟の誰かが戻らなくてはならないと思っていた。 そして最大の理由が「自分の手で何かモノを作りたい」と希求するようになったこと。きっかけは、1995年1月の阪神・淡路大震災だった。 未曾有の大震災の惨状の中、電気が止まり260万戸が停電。それを自分が担当していた関西電力は、わずか1週間で復旧させた。 「このときほど、電気の大切さを痛感し、電気をつくって人の役に立つ電力会社はすごいと思いました」 自分もモノをつくる仕事がしてみたい。「伊村」の看板で勝負してみたい。そう考えたとき、沖永良部で農業をしている父親の姿が思い浮かんだ。 本当の幸せはカネでは得られないのではないか。島には広い農地がある。一生懸命に農業に打ち込む父の姿を見て育ち、「戻っても生きていける」という、変な自信もあった。 「バツ1で、守らなくてはならない家庭がなかったのも、就農という冒険を気楽にできた大きな理由でしたね」 伊村は笑いながら、屈託なく語る。 ●42歳で半農半学の再出発 就農を決心すると、2010年7月、電通を退社した伊村は、農業経済を学ぶのと人的ネットワークづくりのために、沖永良部島からもっとも近い琉球大学大学院農学研究科修士課程に進学する。42歳の再出発だった。 「いずれはレストランを開業して、自分のつくったジャガイモ料理を出したい」 修士課程では「学業2」「農業1」だった割合が、博士課程に進んだいまは、それを逆転させている。 就農2期目には、農薬を使わなかったことで作物に病気が蔓延して3分の1を廃棄した。6期目の昨年も、細菌が繁殖する「軟腐病」が発生し、収穫1週間前に大きな被害を受けた。 またジャガイモは買い取り価格の変動が大きく、農業で安定した収益を上げることは難しい。それでも伊村は、徹底して無農薬・有機栽培にこだわる。 「なんとか将来は、ホームページでの直販を半分まで高めていくことが目標です」 農協経由での販売では、丹精込めた自分のジャガイモも、ほかの農家と同じ仕切り価格で売り渡さなくてはならず、他の産地のものとも一緒に扱われてしまう。 伊村の農業ビジネスを確立させるためには、消費者と直接つながるチャンネルを拡大することは不可欠の命題なのだ。 ●死線を越えて-それでもぼくは究極のジャガイモをつくる 伊村には、中学生の頃から、心臓を制御する伝達経路に異常があって、しばしば鼓動が早くなる疾患があった。正常な経路のすぐ近く原因となる経路があったので、手術は行わずに経過をみていた。 それが2016年6月に、致命的な心臓発作を引き起こす。瀕死の状態で沖永良部の病院に運び込まれ、蘇生措置を行ったあと、ドクターヘリで沖縄本島の病院に移送。3週間集中治療室に入り、この間に2度の手術を施された。 9月にペースメーカーを装着し、その後は激しい運動はできず、息切れはするものの、週1~2回あった発作は治まった。まさに死線から甦ったのだ。 「神経は再生するというから、セカンドオピニオンも受けたけど、いまは運命を素直に受け入れるほかはないです」 それでも伊村は、沖永良部の青くて美しい海を背に、1haからはじめて10haまで拡げた畑で、究極のジャガイモを食べてもらおうと、今日も農作業に汗を流す。 おわり |