昔は「就学免除」のなの元に、教育の機会均等が保障されていませんでしたね。
お母様の努力で通学された事、頭が下がります。
すばらしいお母様でしたね。
そんな努力が、他の障がいを持った子供たちにも門戸を開くきっかけになっていったのでしょうね。
母が私に与えてくれた最も大きいものは教育を受けさしてくれたことでしょう。今はどんな重度の障害者でも義務教育を受ける権利がある、との立場から訪問教師制度もあるらしいですが、私が就学年を迎えた昭和32、3年は全く違いました。「こんな子は難しい勉強なんて理解できる訳がない」「こんな子が我が家にいるのは世間様に恥ずかしい」。こんな今では考えられない理由で「就学免除」の言葉がありました。母はこんなときでも、違いました。それには宇治小学校の当時まだ若きT校長の出会いがありました。「お母さんが送り迎え、給食トイレなどを面倒見るならお子さんをうけいれましょう」。この声に応えて、母は1年準備期間として遅らして東宇治幼稚園からスタートしました。幼稚園では下校時間が早い事もあり小さな部屋を貸してもらい編み物などをしてずっと待っていました。そして、小学校、行き帰り、2時間目のトイレ、給食と学校から自宅まで15分程の道のりを1日4度も往復してれました。そして、歩くのに母に引きずられるようだったので、冬でも汗が出たときもあったと、母は言いました。私が4年生の頃,T校長から学校事務の話があり、往復は若干減りましたが、送り迎えは6年続きました。もし、母のこれらの汗がなければ私はこの文章を書けない事になるのです。
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